漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守①〔ファンタジー・幻想文学〕
あらすじ
舞台はとある架空の町。かつて海だったというこの町には、一宮から八宮までの神社が建つ。
一宮である八坂神社とその周りでは、今日も小さな事件が起こる。時を進めるのをやめてしまった『神殺し』の時守、翼をもつ漏刻博士、ピアノの音色で柄が変わる猫、元は鶏だった時守、龍の噂……。
怪異や妖や人間が繰り広げる、和風SF(すこし・ふしぎ)な連作集!
漏刻博士の都のこと 第1話 鐘楼守①
月の光の強い晴れた夜半、南向きの腰掛窓を開けて風を入れようとしたところで、手をとめた。
雲の立体感と宇宙の青の明るさに、一体今が夜なのか昼なのかわざとだまされて楽しんでいると、虎が壁を通り抜けて部屋に入ってきて、こちらを向いて立ち止まった。
いや虎ではない。大きな猫だ。
銀色の毛に黒の縞が入っていて全体的にぼさぼさしていて眼も足も肩甲骨も大きく虎っぽい。この猫を見るのはこれで四回目だが、毎回空腹ではない虎を連想する。食後の散歩中のたたずまいとでもいおうか。
ちなみに壁を通りぬけたというのは比喩ではなく、右の壁面に作り付けのちいさな棚があって、その一番下がどうやらいわゆる猫ドアになっていて隣の部屋とつながっているらしく、そこから入ってきたのだった。
確か二回目だったか、虎が上開きの軽い樹脂の扉を頭で押して入ってきたあと、その通り口から隣の部屋をのぞいてみたが真っ暗で何も見えなかった。右隣の部屋には確か痩せた色の白い男が住んでいたはずだが、このアパートは壁が分厚いのだろうか、そういえば隣からはいつもなにも物音がしない。
銀色の虎猫は緑がかった薄い褐色の大きなくっきりとした瞳でこちらを見ている。恫喝されているようにも何も考えていないようにも見えてこちらは落ち着かないのだが、猫はふいと視線を外すとゆらゆらと歩き出し、眼の前をまっすぐ横切ってゆく。
面妖なことにこの部屋には向かいの壁にも作り付けの棚があり、そしてそこにも猫ドアが設置されていて、そこに猫は吸い込まれていく。魔術のように消えた先の住人は見たことがないが、やはりしんと静かだ。
猫がひとまず去ったのでひとつ息をつくが、これまでと同じならしばらくしたらあの猫はいまの道を戻ってくるはずだ。あの猫ドアをくぐってこの部屋に現れ、また部屋を横切って元来た隣の部屋へ戻っていくのだ。もしやこのアパートの二階の部屋は全室猫が横切れるように猫ドアでつながっているやも知れないと考えたりもする。猫は一体何部屋を横断するのやらと思ったが、そういえば二階には三部屋だけしかなかった。外階段を上り、見渡した光景を思い浮かべる。廊下に並ぶ菫色の扉が三つ。
それにしても三つであっても猫ドアでつながっているのだ。住人同士が随分と気やすいのか、無頓着なのか。それとも猫の自由運動の為に喜んでこうしているのか。
考えながらなんとなく猫の歩いた床をなでていると、ひげを一本見つけた。つまみあげて月明りで見てみると、根本がわずかに銀色の猫のひげで、さらによく見ると窓際の床の隅に銀色の毛が吹き溜まりになっていてちょっと光っている。
何度見ても途中から夢の中に入ったのではないかと思わせる虎猫の去来なので、もしや猫も、それころ猫ドアも幻覚なのかもしれないとちょっと考え始めたが、どうやらあの猫はちゃんと実在しているらしい。
いつの間にか月が雲から出ていた。カーテンを雑に左右に割った窓枠の影に体を分断されながら窓の外を見る。
山の南斜面に立つこの建物から眼下に広がるのは小さな町だ。夜の明かりをぽつぽつと灯した道と建物、中空を蛇行する竜のような高速道路、鉄道の光の流れや強い光を放つ野球場、それらの中を蛍のように飛ぶ赤や金の光は車か。
それらの光景が彼方へ流れ出ぬために地平に敷き詰められた土嚢のように、低い山が空と町の間に長く長く横たわっている。山のところどころも赤く青く白くぽつぽつと地上の星のように光っている。
「…海だったのにな」
ちいさく、ひとり言も出ようというものだ。
昔はこのあたり一帯、小島がぽつぽつと顔を出す海だった。小舟は無論、ある程度の大きさの船も海路さえ守れば座礁することなく通行でき、漁をする舟や荷物を運ぶ舩、旅の舩などが白い波頭をにぎやかにきらめかせて往来していた。
そしてこのアパートがある山は、古来寺院や寺などが途切れもせず設置されてきた霊験あらたかな吉所であり、このあたりを通過する船はこの山の神社の鳥居へ向けて拝礼の意で帆を下げたものだった。航海の安全祈願と神への畏怖。
今もこの山にはいくつもの寺や神社があるのだが、そのころの威容は無論、ない。そういえば鳥居はまだあるのだろうか。確かめに行きたい気持ちはあるが、まだこの部屋に隠れていた方がいいだろう。
さて少々疲れた。眼を閉じて休んでしまおうかと思ったが、しかし、月夜に誘われてあのころの船の幻でも出現するかもしれないとふと思い至り、酒でも飲みながら待つことにした。
酒は部屋にあったものを飲むことにした。
ここに来る途中で世話になったひとりに翼の生えた背の高い紳士がいて、流れている時代のことを流し込まれるように教わったのだが、紳士は健啖家と見えて特に食べ物飲み物に関する説明の分量も大きかった。おかげで世界の認識(この言葉は紳士がよく使った言葉だ)、特に食べ物飲み物に関する認識に不自由しない。
今飲んでいる酒は缶ビールだ。冷蔵庫の中から一本取った。
紳士のことを思い浮かべながら飲む。あの紳士はまわりのものから「ロウコクハカセ」や「ロコクハカセ」と呼ばれていた。ロウコクハカセとは漏刻博士だろうが自分のよく知る漏刻博士とはずいぶんと風体やふるまいが違う。それにまず、わたしの仕えていた漏刻博士には翼など生えていなかった。
あの漏刻博士(と呼ぼう)は翼を持つから鳥と親しいのか、たまたま上空を飛んでいた巨大なアオサギに声を掛けて近くに呼び寄せ、お互い川べりのガードレールのポールに立って向き合い、長く話しこんでいるのを数回見たことがある。漏刻博士の翼は玉虫色で、翡翠の色が勝っている時が多いが、見る加減で緋色や金にも光り、禁色見本のようで美しかった。
などと思い出に浸っていると、閉めたままの窓の外から怪鳥の声がする。まさにアオサギの鳴き声だ。ケー、ケー、と少々不吉に鋭い声が上空を通過している。
ケー、ケーケー。いや何か言っているような。窓越しなのではっきりしない。
ぐっと窓に近づく。やはり姿は見えないが、上空から『シューシューケー、イッサイクーヤク、』云々と聞こえる。
あの時のアオサギだろうか。なにか用事でもあるのか。もしや漏刻博士がわたしに伝言でも託したか。
『カギ、オカギバン、カギ、ケー』
カギギバン。御鍵番。
なんのことやら。
アオサギは繰り返し『カギ、オカギバン、ケー』と鳴きながら飛んでいってしまったらしい。声がぐんぐん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
部屋にふと眼を戻すと、そこにはあの虎猫がもどってきていて、わたしの足元からそれほど離れていない床に香箱を組んでこちらを見ている。
月光をあびた猫のふたつの眼は薄いとび色、ぼわぼわした毛は夜の雪山のようだ。
どうやらいつの間にか、あちらの部屋からこちらの部屋へとご帰還の途中らしい。それにしても香箱を組むとは数度遭遇したのみでずいぶんと気を許されたものだ。
それともアオサギに気を許しているのか。
「ねこよ、あのアオサギと知り合いか。なんと言ってたのか分かるか」
などと声に出して訊いてみたり。
しかし無論返事をするわけもなく、虎猫はつんとまず桃色の鼻を天井に向けると、次にふわりと立ち上がり、元来た猫ドアのほうへ悠然と歩いていく。そのままするすると猫ドアに吸い込まれていく。
床と平行に凛と浮かぶ猫のしっぽの先までするすると壁に吸い込まれていくのを見つめていた眼の端で、何かが光った。
見ると、猫が香箱を組んでいたあたりの床に、小さな鍵が落ちている。
なんと。鍵とはこれか。
膝でにじり寄ってつまみあげてみる。なるほど鍵だ。
猫の消えた先を見、窓の外のとうに去ったアオサギの方を見、結局手元の鍵に眼を落とす。
さてこの鍵をどうしよう。
第1話②へつづく
