花弄すれば、香衣に満つ。(500字)
稽古前、櫻の盛りが過ぎた道を一歳児の息子を抱いて散歩をした。風がつよい微雨の朝で、こちらは傘を保つのが精一杯であるが、息子は呑氣に櫻を一輪ずつ触れては、花びらを風に舞わしてずっと遊んでいる。
午后の茶室では、濃茶を切った。軸は大德寺太玄和尚の筆で「弄花香滿衣」であった。たしか『春山夜月』の漢詩からとられたもので、このまえに「掬水月在手」があったとおもう。水をすくったら、月が手のなかにあったという一場である。
茶道では、棚がよく用いられ、そこに道具を飾っては移ろわせていく。むろん茶があっての道であるから、茶入を飾ったならば、その真上には何も飾らないのが美しい。柄杓や蓋置もそこを避けて飾る。今はやや怪しい時代だけれども、たとえば天皇陛下を二階から觀ようとするなんてあってはならない。そのような美意識として覺えておかれるとよいのではないか。
禅においては花が咲いたら、花でなくなる。つまりは零のまえが花。一の向こう側を視ていかなければならないが、若かりし頃はこれを「兆しさえ視ておけばよい」としか考えていなかった。今なら四の五の云わずに、花を弄し、水を掬う。無常の儚さのなかに花があるからである。
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