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弥生から古墳への転換期を考える(橿原王家と大和の考古学)

考古学的に大和朝廷大和自生説、特に橿原自生説は難しいと良く言われます。本当にそうでしょうか?私なりに神武天皇以来の橿原王家(橿原から基本的に宮を転々としない(歴代遷宮しない)想定です)の実証に関連して、考察を纏めて行きます。

文献的に纏向以前の大和朝廷の拠点は橿原(恐らく四分遺跡)のはずですが、あの一帯、弥生時代に意外と遺跡の密集度が大和では高いこと、忌部山遺跡上ノ山遺跡(見出し画像/橿原市HPより)といった高地性集落があることが引っ掛かっています。大和では戦争に強そうだなと。四分甕は紀伊と大和の折衷と言い、四分遺跡は弥生時代後期から栄えたと言います。どうもその辺に「神武天皇」が紀伊経由で来たのではないか?紀伊はその頃高地性集落がとても多かったようです。その経路となる葛城はなお紀伊の影響が強いところのようです。

1.2ミリの皇室の本貫地(四分遺跡)|古墳時代史解題
摂津や近江といった淀川流域の円形周溝墓と瀬田遺跡、そして前方後円墳へ|古墳時代史解題
橿原と鷺栖神社|古墳時代史解題

畿内は元々独自の銅鐸を製作していて、九州やその先の大陸との関係があったはずです。神武天皇は大物主神(ないしその子の事代主神)の娘を皇后に迎えています。本来、「(武力を背景として?)平和的に」大和入りした可能性もあると思います。大体、ヤマトとは皇室を指す言葉ではなく、(畿内の銅鐸文化の震源の?)倭国造(恐らく唐古・鍵遺跡)(磯城郡で三輪/芝遺跡を含む)を指す言葉なんですね。

ウィキペディア「銅鐸」銅鐸の分布(AsPJT)

葛城金剛山は金剛砂を産出することも見逃せません。金剛砂は研磨剤として当時から使われていた可能性もあると思います。鏡と同じく、鉄器は大切に使われていて伝世したから、大和での出土が少ないのではないか?石上の前は忍坂(磯城郡)に武器の集積地があったようです(垂仁天皇紀)。金剛山は高天山とも言い、古い皇室に近い大伴氏(剣根命に始まる葛城直氏か)と関係が深そうで、高尾張邑の絡みで、皇室が尾張氏(東海)と関係を持つきっかけになった可能性もあると思います。忍坂にも尾張氏はいました。纒向遺跡には東海系土器が多いことも知られます。

大和の纏向政権は大量の鉄器を持っていた(可視化された見えない鉄器論)|古墳時代史解題
葛城三大勢力とは?|古墳時代史解題

銅鐸文化が濃く弥生時代の遺跡銀座の近江(大岩山銅鐸/野洲郡)を弥生近畿中部社会に位置づけることも重要ですね。手焙形土器から、全国に広がった「初期大和朝廷」の地盤は河内から近江に移ったようにも見えます。纒向遺跡を重視するのは当然ですが、もう少しフラットに河内や近江を探究することも必要なように感じています。

2025年11月11日追記)近江は(三遠式銅鐸の時代に?)銅鐸生産で東海に対する影響力があったのではないか?生産拠点は淀川ルートの東奈良遺跡も含めて検討されるべきだと思いますが。

卑弥呼の土器と日置部と大伴氏、そして中臣氏|古墳時代史解題

他にもありますが、とりあえず、私が研究している纏向以前の「大和朝廷」について、簡単に纏めてみました。生産力が高いところ=日本を統一したところと短絡的に考えると中々難しいですが、勝負は時の運もありますし、人の力も大きいですし、後背地が畿内は大きいので、地の利もあると思います。意外と大和自生説に関して、考古学的に傍証を見つけることは出来るのではないかと思います。また、私は大和朝廷は短期間に急成長したと考えており、弥生時代に列島No.1の遺跡を橿原に見つける必要もありません。

2025年11月11日追記)東遷説派・九州派は質は考えられても、数を考えられていないように見えます。銅鐸勢と銅矛勢のどちらが強いか明らかだと思うのですが・・・。

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