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1.2ミリの皇室の本貫地(四分遺跡が橿原宮か)

見出しは四分遺跡(橿原市)の調査風景の写真です。

2024年7月22日ポスト)四分遺跡。神武天皇陵の東の藤原宮跡の西南部に位置する大規模集落遺跡。弥生時代中期以降に盛んになっており、方形周溝墓が検出され、銅鐸形土製品・小型坊製鏡・絵画土器等が出土しています。私はどうもこの遺跡こそ、神武天皇以来、欠史八代期の大和朝廷の拠点ではないかという気がしています。この解釈は記紀に見える歴代遷宮(代替わりごとの宮の移動)と矛盾しますが、どうもこの期間に大和盆地に広範囲を支配する勢力の形跡がありません。その上で古墳時代の大和朝廷の拠点として明らかな纒向遺跡近辺は磯城県主でしょうから、それ以前の皇室の拠点を求めるとしたら、神武天皇が拠点を置いたとされるこのあたりかなと思う訳です。四分遺跡ぐらい勢力があったら、大和盆地の覇者になる基盤は十分と言えます。

北上すると神武天皇の子から分かれたとされる多氏の多遺跡があり、孝霊天皇の黒田・保津宮古遺跡(穂積=饒速日命か)・(大和盆地の中心集落の)唐古鍵遺跡に至る位置にもあります。

また出土する石包丁(稲の穂首を摘み取る道具)・四分甕から、紀伊(紀の川/吉野川流域)とも関係が見られ、(歴代遷宮で宮が多く置かれたとする)葛城との連携も取れる位置にあります。あるいは外部勢力が紀の川経由で進出したのかもしれません。

更には神武天皇を支えた大伴氏が宅地を賜ったとされる築坂や大伴氏の軍事力とされる久米氏の拠点、纏向の時代に存在感のある阿波忌部・讃岐忌部を統括したと思われる祭祀氏族の忌部氏の拠点もこの近くです。

最後に式内鷺栖神社も近辺の四分町にあり、垂仁天皇記に鷺巣池で出雲大神と誓約をした記述が見えます。また垂仁天皇紀に倭彦命を身狹桃花鳥坂(むさつきさか)に葬る記述があり、倭迹々日百襲姫命のキョウダイにあたる孝元天皇が軽に宮を置いたとされます。どうも纒向遺跡の時代もこのあたりは重要拠点だったようなんですね。結局、記紀の歴代遷宮の記述は、景行天皇の纒向放棄以降の状況を反映したものなのかもしれません。注:現在は歴代遷宮は神功皇后が応神天皇を一種の乳母に(恐らく軽で)育てさせたのを始まりとすると考えています。

6月6日ポスト)四分なる新しそうな名前が当時の名前の訳がないんで(注:中国を起源とする日本古来の計量法で古くは大宝律令に見える尺貫法の単位が分で、1分は3ミリ程度。渋の可能性も考えられなくもありませんが、少なくとも漢字表記は尺貫法の分のように見え、弥生時代で周辺では断トツに繁栄していたはずであり、別の名前があったように見えます)、四分遺跡周辺の当時の地名が恐らく橿原でしょう。奈良盆地の植生は春日山原始林のような照葉樹林で樫や椎と言われます。大和は本来磯城郡で皇室とは別の地名だと思いますが、「大和三山」は(大和三山に囲まれた)藤原宮に近い当地一帯が橿原だと理解している当時の人のノスタルジーを誘うアイコンだった訳です(行けば分かりますが、幸い高い建物がなく、大和三山を実感できます)。藤原なる地名は恐らく元々中臣氏居住の小地名でしょう。橿考研には悪いですけど、橿原神宮外苑の橿原遺跡の地が橿原という地名だった確証はありません。

寧ろ古墳時代直前のこの辺の中心遺跡は四分遺跡で、そちらが(広々とした)橿原と思われ、今で云う橿原は恐らく畝傍だと思いますが、今更名前を変えろとも言いませんので、専門家の方には四分遺跡を含む広域地名が橿原の可能性も念頭に置いて欲しいですね。磐余(とか狭野)(共に三輪方面)はその辺でドンパチやるストーリーだから、名前として採用されたということなんでしょう。「初代王」の宮の名前が決定的に重要だと思います(欠史八代の宮は創作でしょう)。

追記)四分町の鷺栖神社は春日社(或いは鷺栖八幡)とも言われていたようで、藤原氏(や応神天皇)と関係が深いようです。これは狭穂姫命(兄の狭穂彦王の後裔が神功皇后に近い日下部氏)と誉津別命の伝承が想起され、応神天皇が品遅部を引き継いだことを示すように思われ、狭穂彦王と狭穂姫命の母の父が春日で、日下部と中臣(枚岡)は河内においても近いと見られます。垂仁天皇紀の出雲大神参拝に付き添った曙立王の後裔に伊勢品遅部があり、中臣氏と関係の深い伊勢信仰や元春日の枚岡神社の出雲井もこの辺の絡みかもしれません(四分遺跡で井戸の遺構も検出されています)。

ここで大胆な仮説を提案すると、四分(1.2ミリ)は春日(微か)ではないかと思います。四分遺跡が皇室の拠点だとすると、枚岡あたりが本拠地と思われる中臣氏があまり関わるのはおかしいのですが、どうしても藤原不比等あたりの作為や藤原京の絡みを考えてしまいますね。いずれにせよ、中臣氏絡みの地名が新しいとすると、元々の皇室の拠点を橿原といったと思うのです。

追記)御所市に国見伝承と関係の深い柏原の地名があり、神武天皇の宮を設定する時に、名前を借りた可能性も残ります。私が言いたいのは、皇室の大和における拠点を橿原というなら、(遊部郷=ソブ郷に因む説もある)四分遺跡だろうということです。

問題は神武天皇紀に「宇禰縻夜摩東南橿原地」とあることですが、欠史八代(前半)の機械的な陵の配置をそのまま信じる訳にはいかず、古事記には橿原宮の方角の記載はないのであって、神武天皇の宮は応神天皇の軽明宮に寄せたことは明らかです。書紀の編者は神武天皇陵(畝傍山の東北)に寄せて、東北に橿原宮があったことにすべきでしたが、応神天皇の称揚のためにはそうもいかなかったのであり、実際に東北には四分遺跡があるということです。これは古事記伝承編纂時に四分遺跡が皇室のルーツと認識されていたということであり(或いは藤原あたりも含めて橿原に想定されており)、神武天皇陵の位置はここから設定されたことを意味すると思います。

2026年1月6日13日追記)橿原市の橿(主にイチイガシ)の核心部は、橿原神宮の南側から東側に広がる橿原公苑一帯(橿原市畝傍町・久米町周辺)です。縄文時代晩期の橿原遺跡調査(1938〜1941年)で、西部・東部包含層からイチイガシの巨樹根と大量のドングリが出土し、この周辺に橿の密集林があったことが確認されています。これが市の木「橿の木」の由来です。現在は橿原公苑(陸上競技場・野球場など)のエリアで、畝傍山東南麓の微高地北端部に位置します。考古資料に基づく結論です(AI調べ)。

ですから日本書紀の橿原の地名そのものは、実際に生えていた橿を根拠にした可能性もあると思います。ただそこに弥生時代後期の遺跡がないので、橿原宮とは認定できないのです。

では、考古学的に考えて、弥生時代後期に(橿原のあった)畝傍山周辺で皇室の本貫地と言えるような遺跡はあるか?四分遺跡しかありません。私がここを皇室の本貫地に比定する根拠は知られている遺跡の中から候補を探した結果ですが、史料的根拠を有料部分で補足していきます。

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私こと「古墳時代史解題」が主催する古代史クラブです。古墳時代史を中心に歴史を探究します。普段はXで活…

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