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寿陵の中国、子が親の古墳を築く日本①(応神天皇陵から雄略天皇陵まで)

古墳は寿陵で生前に(自分で)築く墓というのが今の学会の通説のようですが、私はこれに真っ向から反対して、子が親の古墳を築くという原則の存在の可能性を指摘します。理由は文献情報からですが、考古学的に今の通説も立証されていないと考えます。この原則の適用範囲は今の所、古墳時代中期(仲哀天皇陵の築造が嚆矢)~崇峻朝(蘇我馬子が完全に実権を握るまで)を考えています。推古朝からは政府機構が子に代わって古墳を築造したと考えます。古墳時代前期は(王都が動いていない)纒向時代と(子がいない)成務天皇からなり、論証が難しいので、一応保留とします。ただし、中期最初の仲哀天皇陵は応神天皇が胎中・赤子の時点なので、神功皇后が代行する(及び反乱軍の皇子が築造する)という例外から始まっています。それでは以下応神天皇陵から崇峻天皇陵まで順にこの原則が適用されているか確認していきます(①では雄略天皇陵まで確認します。②で宣化天皇陵まで、③で崇峻天皇陵まで)。

まず応神天皇陵ですが、恐らく大雀命(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)が河内石津原に築いています(上石津ミサンザイ古墳/見出し画像:ウィキペディア「上石津ミサンザイ古墳」全景(Saigen Jiro))。これは仁徳天皇紀に見える「寿陵」なのですが、恐らく書紀編者の読み違えで、応神天皇陵を築いたのでしょう。考古学的には年代が古く応神天皇の生前に築いた可能性も高いです。何故そう言えるかと言えば、延喜式の百舌鳥耳原中陵じゃないからですし、年代が古いからです(倭の五王の遣使記事から応神朝になります)。また石津連は土師氏ですが、所謂(大古墳群の代名詞となった)百舌鳥腹の土師氏だと思われ、仁徳天皇紀の百舌鳥耳原の地名説話を伝えた氏族だと思います。偉大な大陵(おおさざき)の築造を始めた仁徳天皇を顕彰する為に応神天皇陵を仁徳天皇陵だということにしたのでしょう。

また、一帯では乳岡古墳の築造が嚆矢です。本来は壬生氏(和珥氏)の墓域なのでしょう。つまり仁徳天皇のバックだと思われる難波根子武振熊の一族の地盤に築かれた墓域だと思います。仁徳天皇のバックと言われれば、葛城襲津彦のイメージがありますが、墓の築造場所を見る限りでは、和珥氏の方が優勢だったようです。だから正当な後継者の履中天皇の御名代部が壬生氏(和珥氏)なのでしょう。反正天皇「妃」も和珥氏でした。皇后が変えられてしまったのもこれがあるでしょう。政変で仁徳天皇は即位したと思われるにも関わらず、異母弟を尊重したのも和珥氏(菟道稚郎子皇子の母)絡みです。

それでは、古市にある応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は誰が築造したかですが、正統な後継者の菟道稚郎子皇子が築造したのでしょう。古市は菟道稚郎子皇子の家庭教師の王仁(わに)の一族の西文氏の根拠地だからです。仁徳天皇は後の皇后に菟道稚郎子皇子の妹を娶っているので、自分が造った墓ではなく、異母弟が造った(造り始めた)墓に葬ることを容認したのだと思われます。後継者が変わってから(上石津ミサンザイ古墳に代わって)造り始めた巨大墳なので、完成が遅れたことが考古学的に分かっています。(西文氏が編集に参加した?)日本書紀はこの事情が分かっていて、応神天皇陵築造を(異例に)載せないのかもしれません。

ならば、応神天皇陵の前に築造された仲ツ山古墳は?これは応神天皇が築造したのでしょう。応神天皇は軽明宮で軽の地名が古市にあります。これは菟道稚郎子皇子が正統な後継者である(仁徳天皇から交代?)ということでもあります。誰の古墳かと言われれば、皇后三姉妹の父の品陀真若王が有力候補になります。年代的にもそうですし、応神天皇陵の近くに誉田(=品陀)の地名があるからです。応神天皇は品陀真若王の子ではありませんが、皇后関係の墓は天皇陵(大王陵)とはまた別のルールがあるのでしょう。応神天皇は出自が怪しかったので、後継者に女系から由緒正しい血を補う必要がありました(本来の後継者は仁徳天皇(或いは大山守皇子)だった可能性も高いです)。それを皇子天皇が若い妃が産んだ若い皇子が可愛くなって、後継者を変えたのです。これが崩御後の政変の理由になりました。

次に仁徳天皇陵(大仙陵古墳)ですが、履中天皇が築いています(築造開始しています)。履中天皇の御名代部は壬生氏(和珥氏)だからです。履中天皇には若い後継者がいました(葛城氏直系(葦田宿禰)(或いは武内宿禰の長男の羽田矢代宿禰)を取り込む為に皇妃を娶るのが遅れたのだと思います)。だからあのような巨大古墳が完成したとも言えるかもしれません。

次に履中天皇陵(土師ニサンザイ古墳)ですが、後継者が若過ぎて即位できなかったぐらいですから、反正天皇が築き始めています。或いは後継者の市辺押磐皇子(石上が地盤で和珥氏と関りが深いと思われます)が成人してからの完成です。この古墳は土師(はぜ)を反正と読み替えて、反正天皇陵と考える人が多いです。反正天皇の根拠地の丹比郡も近いと言えば近い。しかし反正はずっと後代の諡号です。後世の人がそう考えたからと言って、それが正しいとは限りません。史書にはそんなことは何処にも書かれていないのですから。

ついで反正天皇陵(田出井山古墳)ですが、子供は若くして亡くなったか女性ばかりだったかで、後継者がおらず、(兄に虐められた)允恭天皇が築いています。小さな陵を。反正天皇が殺した住吉仲皇子の根拠地の近くに。殯も中止していますが、玉田宿禰(葛城氏)にやらせているので、葛城の朝妻が根拠地だったと思われる允恭天皇っぽい人選です。葛城氏と言われれば、蘇我氏のモデルみたいに言われますが、玉田宿禰もやられていますし、文献を見る限りでは踏んだり蹴ったりです。王権に警戒される実力はあったのでしょうが、とても蘇我氏のモデルのように思われません。

次に允恭天皇陵(市ノ山古墳)ですが、恐らく雄略天皇による築造です。雄略天皇は磯城郡(金石文に斯鬼宮)を根拠地にしていて、市ノ山古墳は志貴県主神社が近いです。また志紀県主は多氏ですが、雄略天皇は少子部連(多氏)を寵臣としています。更には雄略天皇は志紀県主を成敗していて(古事記)、土地を接収しておかしくありません。

そういうことで、允恭天皇崩御前後に築造された古墳があるはずです。それが軽里大塚古墳ではないかと思います。つまり、木梨軽皇子が本来の後継者で倭の五王の興(済の世子)なのでしょう。古墳の大きさが程々ですが、そのあたりが木梨軽皇子の人望を反映しているのでしょうか。

ついて安康天皇陵ですが、後継者がおらず、雄略天皇がテキトーに築いています(兵庫山古墳?)。雄略天皇は穴穂部の設置を遅らせています。雄略天皇皇后の若日下部王の兄の大草香皇子を殺した安康天皇(穴穂皇子)を許せなかったのだと思います。

最後にオチですが、雄略天皇陵(岡ミサンザイ古墳)は寿陵というか自分で墓域を決めた可能性が高いです。辛国神社(韓国連が物部氏)が近いからですが(雄略天皇の御名代部の長谷部が物部氏)、雄略天皇は渡来人を重用しており、中国の風習を参考にしたのでしょうし、後継者に不安があったのかもしれません。後継者の清寧天皇は子供がいないことが不安で、自分の為の白髪部を定めたとありますが、岡ミサンザイ古墳の周辺に特に白髪部の痕跡は無いと思います。他の妃の子も同様です。なお、一帯には渡来人の痕跡が多いです。


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