池田古墳と但馬国
池田古墳(見出し画像は但馬検定公式サイト「ザ・たじま」)。兵庫県朝来市和田山町平野字花段の墳丘長134.5mの但馬最大(兵庫県下4位)の古墳で水鳥型埴輪が全国最多の30体確認され、残念ながら埋葬主体は消滅していますが、周辺から長持型石棺の破片が出土しています。神功皇后の異母兄弟の大多牟坂王(多遅摩国造之祖)の墓だと考えるのが順当です。大多牟坂王の母の河俣稲依毘売が「河派仲彦」の関係者の可能性が高く、日本武尊の血を引くと考えて良いと思います(水鳥型埴輪は日本武尊の魂を模していると考えるべきです。津堂城山古墳は仲哀天皇陵と考えて間違いないでしょう)。
但馬国府は和名類聚抄では気多郡ですが(日本後紀延暦23年(804)正月条に「気多郡高田郷に遷す」とあるようです)(豊岡市日高町祢布の祢布ヶ森遺跡(にょうがもりいせき)に比定されています)(但馬国総社が気多神社で能登国一宮との関係が示唆されます)(推測にはなりますが、藤原鎌足の娘の氷上娘(不比等の姉)と天武天皇の間に但馬皇女がいて、この但馬が気多郡のような気もします。天武天皇を養育したのが凡海氏で、崇神天皇と尾張大海媛との間の長男が能登国造の祖の大入杵命(記)だと考えられるからです。従って日高町の地名は天武天皇の母の宝皇女の紀伊国日高郡財部郷から来ていると思います)、移転前の国府も日高町内に国府の地名があり、そちらが国府と考えて良いのでしょう(出石郡の袴狭遺跡説もありますが、批判が強いようです(但馬国府・国分寺館ニュース第31号))。ただ、私の見るところ、但馬国府が気多郡にあるのは、大化の改新以降です。但馬の由来となった但馬国造が朝来郡(あさごぐん)でも矛盾はありません(古墳の築造状況から)。そもそも但馬国造は田道間守に由来するのでしょうが、大多牟坂王は田道間守の血を引いていないとは言え、田道間守の血を引く神功皇后の弟で、(天日槍後裔の本拠地の出石郡を含む)当地を統括し、有力だったと見られます。
また、この(大多牟坂王後裔の)但馬国造とは日下部氏(彦坐王後裔)に含まれると考えて良いでしょう。日下部氏にも諸流ありますが、狭穂彦王後裔ではなく、彦坐王後裔だから日下部氏という訳です。
それ以前の但馬ですが、どうも武埴安彦(近江)系の土地だったように見えます。兵主神社が多いからです。だから神功皇后(息長帯姫)の一族が進出したのでは?天日槍は垂仁朝に来たことになっていますが、系譜が長過ぎ、垂仁朝に天日槍が来て、その子孫の田道間守が垂仁朝に常世国に出発したのでは、どうにもなりません。(汚名を避ける為の)口承による伝承の混乱で、本当は卑弥呼の時代、武埴安彦がNo.1の伊支馬の時代に来て、但馬に住まうことになったのでは?
2025年10月17日追記)大多牟坂王以前、武埴安彦以降は、基本的には天日槍系氏族が代表し、忌部(兵主神社)等が割拠する国だったのかと思います。播磨国風土記や古語拾遺から、そのように伺えるからです。その上から但馬国造がやってきたと。ただ紀年銘鏡の森尾古墳の一族は有力だったかもしれず、大生部兵主神社が関係しそうです(例えば、皇極天皇3年の大生部多)。これは武埴安彦を討った和珥氏が兵主神社を統括したのでしょう。神功皇后を難波根子武振熊(和珥氏)が擁立しており、丹波国造(尾張氏)の上に立ったようです(国宝・籠神社の海部氏系図)。皇極天皇を養育したのが和珥氏(財部氏)と思われます。但馬海直が尾張氏で、分立以前は但馬国は丹波国の一部でした。
参考記事
邪馬台国の官の解析と狗奴国王との争い|古墳時代史解題
天皇陵級の島の山古墳の被葬者は神功皇后の母|古墳時代史解題
五社神古墳の被葬者の神功皇后とモモソ姫、土師氏、前方後円墳最盛期(古墳時代中期)の関係|古墳時代史解題
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