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佐賀県唐津市と奈良県奈良市の鏡神社と古墳

島田塚古墳(佐賀県唐津市大字鏡字今屋敷)。墳丘長35mの前方後円墳で6世紀前半の築造。蓋石のない5世紀前半の舟形石棺が安置されている。出土品は金銅製三輪玉や熊本県宇城市・国越古墳や韓国忠清南道・武寧王陵に類例が見られる銅椀等、豪華。松浦総鎮守鏡神社の四方塚。出典:九州の古墳(海鳥社)。

鏡神社の社伝では神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたことに始まる神社で、当地の湧水が神功皇后の陣痛を治めたとも伝わる。後に吉備真備が(玄昉と真備を排除するとした)(母は石上麻呂の娘の)藤原広嗣の怨霊を二ノ宮に鎮めたとも言い、元は松浦宮・松浦廟宮と呼ばれ、(母が阿刀氏(物部氏)で阿刀氏は弓削氏とも河内物部氏で関係が深いと見られる)空海(弘法大師)が鏡神社に改称したとする(ウィキペディア「鏡神社 (唐津市)」参照)。

参考までに、奈良県奈良市高畑町の吉備塚は吉備真備の墓と伝えられるが、吉備塚古墳は5世紀後半から6世紀初期に第1埋葬施設が、6世紀の第二四半世紀に第2埋葬施設が造営されたと推定され、時代は合わない。この吉備塚の近くに玄昉(阿刀氏)の首を祀ったという頭塔があり、鏡神社(高畑町)は藤原広嗣を祀る。高畑町には(母が(父が鏡王の)額田王の十市皇女や鎌足の娘で天武天皇夫人の氷上娘(その娘の但馬皇女が(母が宗像氏で三輪氏と関係が深い)高市皇子妃)が葬られた)赤穂神社もあり、藤原氏のテリトリーだったと考えて良いのではないか。

ちなみに、興福寺縁起では藤原不比等の母を鏡女王とし、忍坂の舒明天皇陵の墓域に鏡女王墓がある。

いろんな要素が盛り込まれていますが、この古墳は肥前国風土記の日下部君(恐らく狭穂彦王流の日下部氏)の古墳と見て良いと思います。狭穂彦王の母は春日(県主)氏と見られるからです。そこから藤原氏との関係が生じたのでしょう。肥前国風土記の鏡渡の伝承は三輪氏との関係も深いと思いますが、式内・率川坐大神神御子神社(三座)が春日と深い関係にあります。この日下部氏が神功皇后の一族に近く(開化天皇後裔)、神功皇后以降に繁栄したと見られます。高畑町古墳の時期に関連して、忍坂は(允恭朝や継体朝?の)隅田八幡神社人物画像鏡との関係性もありそうです。空海が関係してくるのは、興福寺の前身の久米寺からでしょう(来目皇子が用明天皇皇子で磐余と関係あり)。

吉備真備は多分、吉備塚からの派生です。この吉備とは本来恐らく和気郡(藤原郡/藤野郡)でしょう。狭穂彦王は垂仁朝の初頭に倒された人ですが、垂仁天皇後裔に和気氏があります。この「吉備」に頭塔に類似した熊山遺跡があるのです。熊山遺跡は弓削村と関係するようで、奈良時代の女官の和気広虫(清麻呂の姉)が称徳天皇に仕え、称徳天皇が道鏡や吉備真備を寵愛したという関係です。称徳天皇の母が藤原光明子で(興福寺の北に位置する)東大寺と関係が深い。

なお、もう一つの頭塔類似の都塚古墳は蘇我稲目の古墳と考えています(都塚古墳は「和製階段ピラミッド(頭塔・土塔・熊山遺跡)」の起源か?|古墳時代史解題(有料記事))。仏教伝来に深く関わるからモデルとされたのでしょう。また、藤原武智麻呂・房前・宇合の母が蘇我氏で、持統天皇・元明天皇と共通しています。磐余と関係が深い阿倍臣/膳臣が元明天皇と関係が深い(高橋邑の活日が崇神天皇紀に登場/高橋連が物部氏/高橋臣が膳臣)。

最後に考古学的なことを言えば、島田塚古墳の古墳築造時期より100年古い舟形石棺は、氏祖の改葬ではないかと思います。神功皇后か応神天皇に仕えた日下部氏が当地に来たのではないか?

見出し画像は「島田塚(しまだづか)」(県指定(史跡の部)01 - 佐賀県)。

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