UFOめいた皇極天皇陵(斉明天皇陵/牽牛子塚古墳/越智崗上陵)と蘇我氏と物部氏の遺恨
牽牛子塚古墳。UFOではありません。多くの考古学者に真の第37代(重祚して)斉明天皇(第35代皇極天皇※延喜式諸陵式に飛鳥川原宮御宇皇極天皇)陵(越智崗上陵)と目されている2009年から2010年の発掘調査で明らかになった墳丘対辺長約22mの八角墳です(世界遺産構成資産候補)。牽牛子とはアサガオの別名。奈良県高市郡明日香村大字越に所在。天智天皇紀に称制中(即位前)の天智天皇6年に「合葬天豐財重日足姬天皇與間人皇女於小市岡上陵、是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。」とありますが、牽牛子塚古墳は合葬墓であることが判明していて、隣接した越塚御門古墳が太田皇女の墓と考えられています。間人皇女は中大兄皇子の妹で孝徳天皇皇后(聖徳太子母とは別人)。大田皇女は天智天皇(中大兄皇子)の皇女で大海人皇子(後の天武天皇)の妃で即位前に薨去したことが妹の持統天皇の即位に繋がります。
斉明天皇は生前に可愛がっていた(中大兄皇子の長子の)建王(唖不能語)との合葬を望んでいましたが、どうなったかは不明(推古天皇と同様に建王の今城谷の古墳が斉明天皇の初葬地だった可能性も考えられますが、菖蒲池古墳(世界遺産構成資産候補)の可能性を指摘しておきます。同じく今来の雙墓(双墓。蘇我蝦夷と蘇我入鹿の古墳)は小山田古墳の可能性が高そうです)。また続日本紀の聖武天皇の天平14年5月10日に越智山陵が崩壊したとの記述がありますが、牽牛子塚古墳には崩壊の跡があったようです(この時のものかは不明)。
宮内庁の治定陵は車木ケンノウ古墳ですが、古墳状の隆起で古墳だとすれば、直径45m程度の円墳のようです(江戸時代或いは中世に斉明天皇陵と認識(誤認)されていた可能性はあると思います)。岩屋山古墳や小谷古墳も斉明天皇陵説がありますが、前者は初葬地だとする説もあります。なお、舒明天皇陵以降、文武天皇まで(孝徳天皇を除いて)八角墳が天皇陵の形式と考えられています。
皇極天皇は夫である舒明天皇の崩御後に蘇我蝦夷・入鹿父子によって中継ぎとして(蘇我系の古人大兄皇子の擁立に失敗して)擁立されましたが、子の中大兄皇子によって起こされた乙巳の変で蝦夷・入鹿父子が倒され、弟の孝徳天皇に皇位を譲ります。
孝徳天皇は大化の改新と言われる改革を行ったとされますが、倭京(大和)への遷都を拒否して、中大兄皇子を筆頭とする(先帝(皇祖母尊)や皇后を含む)親族及び公卿大夫百官人の支持を失い、病に倒れ崩御します。 それでも中大兄皇子は即位せず、母の寶(宝)皇女(皇極天皇)が斉明天皇として重祚しました。事績としては狂心渠(酒船石遺跡)と言われる溝の築造が挙げられ、飛鳥京跡苑池と共に世界遺産構成資産候補となっています。斉明天皇紀の斉明天皇の公共事業批判が知られるところですが、蘇我赤兄が中大兄皇子の意を受けて孝徳天皇の子の有馬皇子に近づく口実として利用したという見方もあります(日本書紀は壬申の乱で勝った(天智天皇の血も濃いですが)天武王統の歴史書なので、天智天皇の「失政」は遠慮なく記載されたと思われます)。斉明天皇は百済の救援に向かい、朝倉宮で崩御しました。
真の斉明天皇陵と目される牽牛子塚古墳のある越はコシと訓むようです。越智氏との関りも考えられる越智は高取町にあります。斉明朝では(越国守)阿部引田臣比羅夫が蝦夷や粛慎の討伐で活躍しています。斉明天皇の業績を記念した地名だとも考えられます(継体天皇陵に近いのも引っ掛かりますが)。
なお(越の能登国の/石川県北部の)羽咋町はUFOの町として知られます。残念ながら、この越は加賀国(石川県南部)の道君関連でしょうが(桜井市の白山神社等から)。
小旅行記)牽牛子塚古墳。奈良県高市郡明日香村越の斉明天皇と間人皇女(舒明天皇・皇極天皇の娘で天智天皇の妹で孝徳天皇の皇后)の合葬墓(越智崗上陵)説が有力視されています。UFOよろしく復元された威容を誇る八角墳で、飛鳥を巡るなら外せない古墳だと思います。ただし山側に向かって奥まった位置にあるため、来るのに多少の努力は必要です。牽牛子とはアサガオ。越(コシ)と越智(オチ)は違う地名ですが、越の北西と西に越智の地名があり、貝吹山一帯が越智崗と考えていいんじゃないかと思います。
小旅行記)越塚御門古墳。牽牛子塚古墳の直ぐ側にある方墳(見出し写真手前の方形の墳丘)で、持統天皇の姉の大田皇女の墓と目され、牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であることを裏付ける古墳になります。牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であることを否定する論拠としては、天智天皇紀の「不起石槨之役」があるのですが、その解釈はどうあれ、牽牛子塚古墳や越塚御門古墳そのものが被葬者候補を別人だと考えさせないものがあると思います。このような八角墳に他の誰が葬られるというのか?
2025年10月24日追記)越智氏が物部氏族であったことだけが、謎だったんですが、ようやく斉明天皇との関係が分かりました。これ、多分、天智天皇が斉明天皇の為に新しく用意した陵です。斉明天皇は建皇子が薨去した時、今城谷で殯した建皇子を自分の陵に合葬しろとい言ったんですが(斉明天皇紀)、結局、越智崗上陵に建皇子を合葬した形跡が無く、遺言「不起石槨之役」(新しい労役を課すな)も守られた形跡がありません(牽牛子塚古墳の比定は間違いないと思いますが、結構立派です)。土木好きとも言われる斉明天皇が今更新しい労役を課すなもないものだと思いますが(ただ、天智天皇や天武天皇の方が土木は多い印象も無くもないですが、女性活躍の時代にも男尊女卑の思想はあったのでしょうか)、こうなることを予見して、自分が築いた寿陵(菖蒲池古墳か)に建皇子と合葬してくれと頼んだのかもしれません(無視されたようですが)。
つまり和珥氏(物部首)と関係が深かった皇極天皇に対して、中大兄皇子があえて石上のライバルの物部氏を起用したと見ます。中大兄皇子は蘇我蝦夷や入鹿の寿陵があった今城谷で建皇子の殯をやって(墓まで造った?)、母と合葬する等ということは我慢ならなかったのでしょう。母の(自分を擁立した)蘇我氏に対する敵対的でない(友好的な)感情が気に入らず、狂心渠の噂に繋がったと見ることも出来ます。どうも蝦夷の母と皇極天皇を養育したのは同じ和珥氏の一族だった感じです。そしてこの時期、石上に関連して物部氏(物部連氏)と和珥氏(物部首氏)はそれほど仲良くなかったのではないか?
蘇我馬子の妻(蘇我蝦夷の母)は物部守屋の妹ではなかった(和珥氏だった)。|古墳時代史解題
乙巳の変で蘇我氏の本宗家は倒され(滅亡はしていませんが)、(蘇我氏にボコボコにされたところの)物部氏が復権したというか、天智天皇に協力したと考えられるんですね。石上(物部)麻呂は最後まで大友皇子に付き合っていることで知られます。
しかし、それにしては、壬申の乱で勝利した天武天皇は物部氏(石上麻呂)に寛大です。助命した上、重用しているんですね。これは天武天皇がハツクニシラス(崇神天皇及び神武天皇)を重視したことに関係があると思います。崇神天皇の母は物部氏ですし、神武天皇は饒速日命の協力を受けています。天武天皇の養育氏族は凡海氏ですから、凡海氏が妃を出し、景行天皇皇后・応神天皇皇后三姉妹に繋がっていく崇神天皇は思い入れのある天皇だったのでしょう。
しかし、石上麻呂は平城京遷都の時に旧都の留守役とされ、置き去りになります。多分、蘇我氏の血を引く元明天皇は、物部氏に含むところがあったのでしょう。
なお、愛媛県今治市(伊予国越智郡)に高市の地名があり、そこをルーツにした高市氏は少なくないようです。伊予国の越智(物部)のルーツは高市郡のだと思われ、そのツテで、高市氏が伊予国の越智郡にいたのかもしれませんね(越智郡の古墳は古墳時代中期で大三島神社も同様と考えた方が良いのかもしれません)。
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