日本最大の上円下方墳、山王塚古墳と埼玉古墳群・武蔵府中熊野神社古墳・浅間山古墳(群馬県高崎市)の関係
2024年2月1日ポスト)山王塚古墳(見出し画像は「山王塚古墳現況(南から)」(川越市))。国史跡(令和5年3月20日指定)。日本最大の上円下方墳で、下方部一辺69m。7世紀後半頃の築造とされています。山王塚古墳の名は墳頂の山王社に由来し、山王神社の総本宮は日吉大社(古事記の大山咋神を祀った近淡海国之日枝(ひえ)山→後に比叡山延暦寺が建立)。山王七社の筆頭に掲げられる西本宮が大己貴神で東本宮が大山咋神。川越市(入間郡)の古墳で、新撰姓氏録の入間宿禰(天穂日命後裔=出雲臣)の古墳と考えて、ほぼ確定でしょう。つまり武蔵国造だと思います。古墳の築造時期から、山王社は天智天皇の近江宮(667年~671年)と深い関係がありそうで、当初から存在し維持されてきたと見るのが自然です。

武蔵国の上円下方墳と言えば、武蔵府中熊野神社古墳も有名ですが、熊野神社の祭神は素戔嗚尊だそうで(出雲国造の当初の本拠の意宇郡の唯一の名神大社が熊野坐神社で祭神は素戔嗚尊とされます)、こちらも武蔵国造に関係するかもしれません。


なお伏見桃山の明治天皇陵・昭憲皇太后陵、武蔵/多摩の大正天皇陵・貞明皇后陵・昭和天皇陵・香淳皇后陵も全て上円下方墳です。京都の(今の皇統に連なる)天智天皇陵をモデルとしたという通説が正しいのでしょうが、天智天皇陵は今では上八角下方墳とされます(天智天皇の父の舒明天皇陵も同じ)。天照大神/素戔嗚尊の誓約で生じた天孫族とは言え、臣下の武蔵国造(出雲臣)の古墳の形式と結果的に被ってしまった感があるのが、何とも言えない感じではありますね。
2022年12月16日)埼玉県川越市は武蔵国入間郡。新撰姓氏録、左京神別に入間宿禰(旧氏姓は物部直/続日本紀、神護景雲2年7月11日条)は天穂日命十七世孫天日古曽乃己呂命(被葬者か)之後也。記紀神話に出雲国造と武蔵国造と同族。山王塚古墳はその大きさから武蔵国造の古墳か。
2024年12月6日)権現山古墳群。埼玉県ふじみの市(武蔵国入間郡)の3世紀後半~4世紀の古墳群(前方部撥形の前方後方墳(権現山2号墳)1基、方基11基)。埼玉県指定史跡。後の武蔵国造の一派の出雲国造族入間氏(神門氏/初期土師氏)の古墳と考えて良いと思います。権現山北古墳群は5世紀中頃。
2024年12月6日)式内出雲伊波比神社(2025年10月12日注:斎主神は(四方拝の)東国檝取の神ですが、これは春日大社でも祀られる(国譲り神話で活躍する)経津主神です。本来は穂積氏/物部氏の神であったと考えられ、物部直氏=出雲国造(神門氏か)です。恐らく当初は物部氏の下に出雲国造が組み込まれたのでしょうが、出雲国造神賀詞では天夷鳥命に副えられたのが布都怒志命とします。春日大社で祀られるのは国譲り神話で活躍したからなのでしょう)、中氷川神社擁する武蔵国入間郡(他に広瀬神社・物部天神社・国渭地祇社)は神門氏/武蔵(出雲)国造/入間宿禰の領域だったと思います。入間川は江戸時代まで舟運で江戸まで繋がっていたようです。時代は下りますが、山王塚古墳は特殊で巨大です。土師氏の誇りがあったのでしょうか。
2024年12月31日)多分、山王塚古墳の入間宿禰(武蔵国造出雲国造流)が日吉神社と関係があるんですが、(総国にも見える)神門氏流と考えて良いような気がしています。富山でもそれっぽいの(新川郡式内神度神社)を見つけて、あれこれ考えている所です。
2025年1月23日)何か出雲=稗のような気がしてきた(山王塚古墳が出雲国造族はほぼ確なので)。黍(吉備)と言い、粟(阿波)と言い、そうだとしたら、大和の命名のセンスはまるでイジメっ子・・・。これに対して日吉と書いて対抗した?
2025年8月28日)日吉大社(山王権現)と(埼玉県川越市の山王塚古墳を代表とする)上円下方墳は関係あると見ています。武蔵国造には少なくとも二流あって、大彦命後裔の杖部氏が埼玉古墳群、出雲国造族(入間宿禰)が上円下方墳でしょう。なお、明治天皇陵等近現代の古墳も上円下方墳。
2025年9月6日ポスト)多分後に聖徳太子の上宮乳部(和珥氏)が埼玉古墳群に来て、武蔵国造は(蘇我氏に絡んで)(川越市山王塚古墳の古事記記載の)出雲国造族(入間宿禰/物部直氏)に交代していますね。何故交代させられたかはハッキリしませんが、武蔵国造の乱が遠因になった気もします(上毛野君が巻き返したとか)。
入間郡の西を高麗郡に割いたみたいで、入間宿禰が出雲国造族で新しい武蔵国造でしょうから(山王塚古墳は巨大上円下方墳)、聖徳太子の師の高句麗とは何かガッツリ関わってそうですよね。群馬の方の浅間山古墳も恐らく子孫が武蔵国造の乱に関わってそうです。この辺は掘り下げがいがありますね。
2025年9月8日ポスト)国宝の存在で関東を代表する埼玉古墳群(恐らく前の武蔵国造/杖部氏の墓域)は博物館も行ってきたので、後日補足しますが、埼玉県で言えば、個人的には川越市の山王塚古墳も注目しています(行けていませんが)。(有名な武蔵国府のものと比べても)最も大きい上円下方墳で、恐らく蘇我氏に関連して、入間宿禰(出雲国造族/物部直氏/後の武蔵国造)の古墳だと思います。この交代は、どうも聖徳太子の上宮乳部に関連して、武蔵国造の乱絡みで、揺り戻しがあった気がしますが、ハッキリしません。蘇我蝦夷の母が和珥氏(物部首)で、(浅間信仰に関わる)和珥部が車持君に関連して(?)、杖部氏を抑えて、勾玉絡みで蘇我氏と関連が深かった出雲国造族が出張ったような気もしますが、どうなのか。
2025年10月12日追記)東京都府中市の武蔵国総社が大國魂神社(六所宮)です。これは名前からして倭国造系ですが、上野国の(上野国第二位の大きさの)浅間山古墳(高崎市)に関連して、倉賀野神社の祭神と同じです。上野国の方はどう考えても上毛野君の祖の御諸別王に関連するでしょう。つまり三輪山を指す御諸山とは倭国造系の呼び名ではないかと思われ(倭大国魂神と大物主神は本来同神であり、倭国造と三輪氏の母体(唐古鍵遺跡と芝遺跡)は同族なのでしょう)、上毛野君に関連して、茅渟や紀伊と倭国造の関係が深いように思われます。二上山の石材を茅渟で加工していた関係かもしれません。これが(多摩(玉?)の)武蔵国総社に関わってくるのは、恐らく藤原不比等の母が車持君(恐らく御諸別王の直系子孫)であるからなのでしょう。
入間郡の山王塚古墳と多磨郡の武蔵府中熊野神社古墳の被葬者ですが、これまで見て来たように、恐らく前者が神門氏流で、後者が出雲臣流で、同族意識のある別系だと思います。
埼玉古墳群の前玉神社が鎮座する浅間塚古墳に関しては、蘇我蝦夷や聖徳太子に関連しそうな気もします(蘇我馬子の妻(蘇我蝦夷の母)は物部守屋の妹ではなかった(和珥氏だった)。|古墳時代史解題:富士山の古代史|古墳時代史解題:一都六県最大の古墳|古墳時代史解題)。
2025年10月19日追記)蘇我馬子は相当、(日祀部の)敏達天皇に対して恨みがあるので、少なくとも推古朝から皇極朝の間は太陽信仰は下火になったのかなと考えています(雄略天皇や敏達天皇が再興した太陽信仰と関係深かったと思われる杖部氏の武蔵国造も交代させられたか)。推古天皇の摂政の聖徳太子の異母妹に伊勢斎宮がいるのですが、推古朝に退任した後は、特に補充しなかったようです。というか、恐らく伊勢斎宮と共に太陽信仰を復活させたのは天武天皇なのでしょうが、天武天皇は出雲とも関係が深かったこともあり、武蔵国造をまたどうにかしようとしなかったのかと思います。
卑弥呼と崇神天皇の時代に活躍した大彦命後裔の武蔵国造(杖部氏)の剣(埼玉県行田市稲荷山古墳)|古墳時代史解題
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