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自分のこと、大切にしすぎではないですか

少し乱暴なことを書きます。

最近、「自分」を大切にしすぎている人が多くないでしょうか。

「一人ひとりに価値がある」「自分を大切に」「あなたはあなたのままでいい」。
こうした言葉は現代社会のあちこちに溢れていますし、その理念自体を否定するつもりはありません。

ただ、この意識が行きすぎた結果、なんというか、一般人が「俺を誰だと思っているんだ」というちょっと謙虚さに欠けるような態度を取るようになっている場面を見ると、ん?ちょっとおかしくない?と思ったりしたわけです。
この「俺を誰だと思っているんだ」についても、別に老害的な意味ではなく、最近のSNSとかでの「自分が嫌いなものは全て無くなってほしい」「自分が思っている意見はすべて正しい」みたいな「自分が正義」だと強く思っている場合にも当てはまると思っています。

かつての日本では、「誇り」の単位は個人ではなかったようです。

武士の社会では、個人の命よりも家名の方が重かったと聞きます。
自分一人の恥は、一族全体の恥になる。だから、個人の感情や欲望よりも、家の存続と名誉が優先されたようです。

「お前は一族の恥だ!」といった言葉は少なくとも現代的でなないように思います(まぁたぶん一部ではまだあると思いますが)、これは現代の感覚からすると息苦しいし、個人の自由を抑圧するものだったのは間違いないと思います。
しかし、その背景にあった考え方自体は、実はかなり合理的なものだったのかなぁとは思います。

個人は、比較的すぐに死にます。

どんなに偉大な人間でも、せいぜい80年か90年で終わりです。昔、特に戦国時代はもっと短命だったでしょう。今よりも栄養も医療も、そして戦闘で命を落とすことも多かったでしょう。
一方、家柄や一族、あるいはコミュニティは、何世代にもわたって続いていきます。限りある個人の命よりも、続いていくものの方に価値を置くというのは別におかしなことではありません。

個人の人生は短い。だからこそ、自分一人の価値に固執するよりも、自分を超えて続いていくものに貢献する。かつての日本人が「誇り」と呼んでいたものの中身はなんとなくこういったものなのかなぁと思います。

翻って現代はどうでしょうか。

「一人ひとりに価値がある」という考え方が浸透した結果、個人の自己評価が過剰に膨らんでいる場面をよく目にします。

飲食店で店員に横柄な態度を取る人。
SNSで自分の意見が否定されると激昂する人。
公共の場で「自分は特別扱いされるべきだ」と主張する人。
クレームを入れるとき「俺を誰だと思っているんだ」と凄む人。

失礼を承知で、というか強い言葉になってしまいますが、あなたは誰でもありません。

これは侮辱として言っているのではなく、ただの事実だと思います。
世界には80億人の人間がいます。日本だけでも1億2000万人です。その中の一人が、特別な扱いを受けるべき理由はやっぱり特にないと思います。
当然いろいろなラベルを張ることはできるでしょう。有名人もいますし、お金持ちもいます。でもそれは周りがいう事であって自分で言う事ではないと思っています。「○○さんですよね!いつも勇気をもらっています!今日はサービスしておきますね」という事も周りがする事でしょう。

もちろん人権という意味では一人ひとりに平等な価値があります。
それは大前提です。しかし、「人権として尊重されるべき」ということと、「自分は特別な存在だ」ということは、まったく別の話です。前者は普遍的な権利の話であり、後者は単なる個人の思い込みです。

この「自分は特別だ」という感覚がどこから来るのか、ちょっと考えてみます。

たぶんですがSNSの影響は大きいでしょう。
誰もが発信者になれる時代になったことで、「自分の意見には価値がある」「自分の声は届くべきだ」という感覚が、以前よりもはるかに強くなっています。

フォロワーが100人いれば、100人が自分の話を聞いてくれている気分になる。「いいね」が50個つけば、50人が自分に同意してくれたと感じる。この小さな承認の積み重ねが、「自分には価値がある」「自分の意見は正しい」という確信を育てていく。

最近そんなnoteばっかり書いていますね。

しかし実際には、100人のフォロワーは日本の人口の0.00008%にすぎません。50個の「いいね」は、世界の誰からも注目されていないのとほぼ同義です。
SNSが作り出す「自分は見られている」「自分は影響力がある」という感覚は、ほとんどの場合錯覚です。

ちなみに、SNS、特にXのアカウントは複数持っておくことを推奨します。
メインアカウント以外のアカウントではあまりつぶやかず、いいねもしなければまったく別のタイムラインを見ることが出来ます。
あなたのタイムラインに毎日流れてくる同じようなポストは、ただアカウントを変えるだけで、誰も話したりすらしないのという事がよくわかると思います。

こう書くと、「じゃあ自分に価値がないと思えと言うのか」「自己肯定感を否定するのか」という反論が来そうですね。

そうではありません。

自分を大切にすることと、自分を過大評価することは違います。
自分の人生を丁寧に生きることと、自分が特別な存在だと思い込むことは違います。

かつての日本人が「誇り」の単位を個人ではなく家に置いていたのは、個人を軽視していたからではないと思います。むしろ、個人の限界を正確に認識していたからこそ、個人を超えたものに価値を見出していたのではないでしょうか。

自分一人にできることは限られていて、自分一人の人生は短いという事実がある。
だからこそ、自分より大きなもの、自分より長く続くものに貢献することに意味を見出す。この考え方には、ある種の謙虚さがあります。

現代の「自分を大切に」には、この謙虚さが欠けているように感じることがあります。「自分を大切に」が、いつの間にか「自分を最優先に」にすり替わり、さらに「自分は特別扱いされるべきだ」にまで肥大化している気がします。

個人の権利や自由が保障される現代社会の方が、圧倒的に生きやすいのは間違いありません。

ただ、やっぱりたまには冷静に自問する方が良い気がしています。

自分は、そこまで大切にされるべき存在なのか。
自分の意見は、そこまで重要なものなのか。
自分の不快感は、他人を動かすほどの価値があるものなのか。

80億分の1の人間が、「俺を誰だと思っているんだ」と胸を張ることの滑稽さに、もう少しだけ気づいてもいいのではないかと思います。

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