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私の「好き」はジャンル不明 ―― 闇鍋プレイリストから見えたもの

私の音楽プレイリストには、統一感がない。

演歌が流れたと思ったら、フォークになり、  
その次にはヘヴィメタルが鳴る。

古い曲も、新しい曲もある。

「どんなジャンルの音楽が好きなんですか?」

と聞かれると、返答に困る。

知らん。

私が知りたい。


 私は、アーティストを好きになっているわけではないらしい

もちろん、

この曲が好きだったから、  
同じアーティストの曲を聴いてみよう。

ということはある。

一個当たったなら、同じ人が作ったものには、
また私の好みに刺さるものがあるかもしれない。

だからアーティスト名は覚える。

でも、そこで妙なことが起きる。

好きなアーティストの話になって、

「あの曲いいよね!」

と言われても、曲名を知らなかったりする。

聴けば、
「ああ! これ好きなやつ!」

とはなる。

それなのに、

そのアーティストの顔も、経歴も、知らない

私が好きになるのは、名前じゃなくてその時見た情景かもしれない。

全部が好きだとは言っていない。音が好きなのだ

これを言うと、たいがいは

「それ、本当に好きなの?」

みたいな顔をされる。

うん、ちゃんと好きだよ。

ただし、そのアーティストの全部が好きなわけじゃない。

私にとってアーティスト名は、好きな音を探すための目印だ。

「その人自身を知るための入口」ではなかったりする。

この名前の棚には、私が好きな曲が何個か入っている。
それが分かれば、とりあえず十分だ。

だから、

誰が誰と結婚しようが、
不祥事を起こそうが、

そのアーティスト名と曲への評価は、
それだけが原因で揺らぐことはない。

逆に言えば、「そのアーティスト本人の人間性」が好きなわけでもない。


どうやら、私の「好き」はピンポイントすぎる

考えてみると、音楽だけではなかった。

俳優もそうだ。
私は極端に有名人に疎い。
興味がないと言っても差し支えない。

だが、唯一の例外がある。

阿部寛さんは好きだ。

しかし、

「あのドラマに出てたよね!」

と言われても、ぶっちゃけ知らない。
ほぼ、見てない。

それを生業にしている方に対して、かなりの失礼をぶっこいている自覚はある。

たぶん、万が一ご本人にお会いする機会があれば、真っ先に嫌われる自信がある。

それでも、阿部寛さんが好きだ。

どういうことだ。

しばらく考えて、ようやく分かった。

私はたぶん、

「その人」や「そのジャンル」を丸ごと好きになっているわけではない。

心が動いた場所だけを、好きになっている。

少し照れ笑いするような表情。
彫りの深い渋い顔。
シンプルなホームページ。

ネット民にネタにされることもしばしばだが、
このAI万歳ご時世になってもまだ、

伝説の軽量ホームページを更新し続けている。

ネットの世界での、生きた化石かもしれないページを。

そういうところに、
一個ずつ私の「好き」のピンが刺さっている。

たぶん、あのホームページがある限り、

私は阿部寛さんが好きだ。


私の「好き」は、オセロじゃない

だから、ひとつ好きなところを見つけたからといって、
その人のすべてが好きな色にひっくり返るわけではない。

逆もそうだ。

ひとつ嫌なところを見たからといって、
昔好きだったところまで全部嫌いな色に裏返るわけではない。

私の好きは、オセロではない。

一個ずつ置く。
一個ずつ見る。

「あ、ここ好き」

と思ったら、そこにピンを刺す。

また別のところを見せてもらって、

「これも好き」

と思ったら、もう一本。

そうやって、一人の人やひとつの作品に、ピンが少しずつ増えていく。

好き、と思ったところにピンを刺す。

ピンが増えると、名前への反応速度が上がる

これが面白い。

好きなピンが一本しか立っていない人より、

「あれも好き」
「これも好き」

「そういえば、あの時のあれも好きだった」

とピンが増えていった人は、名前を見た瞬間の反応が速くなる。

「あ、この人だ」

と、心の中の尻尾がブンブン反応する。

たぶん、その名前そのものに反応しているわけではない。

名前を見た瞬間に、

その人に刺さっているいくつものピンが、まとめて思い出されるのだ。

だから、好感が先に立ち上がる。

それが私の中では、

「この人、かなり好き」

なのかもしれない。


でも、人ひとり丸ごと完成することはあまりない

ここまで考えて、

だから私は、人を丸ごと好きになる恋愛から、縁遠いのかもしれないと思った。

好きなところのある人は、たくさんいる。
同じくらい好きな人も、けっこういる。

この人には、このピン。
あの人には、あのピン。

それぞれ違う場所が光っている。

でも、

「この人の全部が好き!」

という一色には、なかなかならない。

好きな部分と、
よく分からない部分と、
あまり好きではない部分が、

そのまま別々に置かれている。

人物として一枚に塗りつぶされない。

だから逆に、人を丸ごと嫌いになることも、あまりない。


 好きのピンを抜いても、嫌いのピンは立たない

昔は好きだったものでも、ふと思い出してみると、

「あれ。そうでもなくなってきたな」

と思うことがある。

そういうときは、たぶん私は、そっとピンを抜いている。

でも、その場所に「嫌い」のピンを刺し直すわけではない。

ただ、何もない場所に戻る。

もう、そこに強く心が動かなくなっただけだ。

ただ、関心が薄れる。

だから、

「好き」の反対は、必ずしも「嫌い」ではない。

私の地図には、ただの空白がかなり多い。

そこには、今後どちらのピンも立つ可能性がある。

塗りつぶされない地図。

noteでも、たぶん同じことをしている

誰かの記事を読んで、この文章が好きだな、と思う。

それは構成だったり、タイトルだったり。

ぶっちゃけ、記事のテーマ自体には、ほとんど興味がない時もある。

例えば、BTC(ビットコイン)予想なんて1ミリもわからん。

でも、

考え方。
比喩の使い方。
コメントの返し方。
人との関わり方。
距離感。

そんなところで、好きのピンがひとつ、立ったりする。

それをするのに、過去の記事をすべて読む必要はない。

今の関係上で、自分のピンが分かればじゅうぶんだ。

もちろん、昔の記事を読んで、また好きなピンが増えることもある。

ただし私はもはや、

スキだけ押して静かに帰れる女ではなくなってしまった

好きな人の過去ログを本格的に掘り始めると、

著しい量のコメント爆撃の集中砲火が始まる危険性がある。

よって、適度な自主規制をかけている。


闇鍋だったのは、プレイリストだけではなかった

そう考えると、私のプレイリストが闇鍋なのも説明がつく。

私は、演歌が好きだから演歌を集めているわけではない。
ヘヴィメタルが好きだから、ヘヴィメタルを集めているわけでもない。

心が動いたものを、その都度ぽいぽい放り込んできただけだ。

結果、ジャンル不明の鍋が完成した。

でも、それはたぶん音楽だけではない。

人も。
文章も。

「ここで私の心が動いた」

という場所を覚えている。

あのときのこと。やっぱり好き。継続保存完了。

私の中には、

小さな点が集まってできた
「好きの地図」がある。

この曲。
この言葉。
この人の、この瞬間。

一個ずつピンが刺さっている。

たくさん刺さっている場所もあれば、
一本だけ、何年も残っている場所もある。

そして、その点を思い出したとき、

今も

「ああ、やっぱり好きだな」

と思えるなら、

私にとっては、それで十分なのだ。

私の好きは、ジャンル不明。

たぶんこれからも、私の闇鍋はレベルアップしていく予定だ。

好き。だから入れた。それだけ。

私は、信頼関係にもこのピンを使っていた。
人間関係についての別視点は別館ねこのーとへ!



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