「幻日」 第10話
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男の人は不倫をすると優しくなる。意味もなく優しくなったときは警戒したほうがいい。そんな、当然のように言われるその言説を、なぜ考えなかったのだろう。その前は散々史也の不倫を疑っていたのに、優しくなってからの史也に朋奈は一度も不倫を疑ったことがなかった。冷静に考えると、まさに「不倫をして優しくなった男」そのものだったのかもしれない。
メッセージアプリを遡ると、月に一、二度ほどの割合で食事をしているようだった。おそらくすべて朋奈には「仕事の会食」と説明している日だろう。何よりも許せなかったのが、娘のことを「朱音」と呼んでいることだった。よくよく過去を遡ると、朱音にも一度会っていることがわかった。娘の呼び名、朋奈の不安定、子どもが出来ないこと、虐待しているかもしれないこと……ざっと見るだけでここ半年ほどのことを全て報告、相談している。史也が優しくなったのも、この女がそうしたらいいと言ったからなのだろう。そんな史也に喜び、愛されて大切にされてると思い込んでいた自分が、酷くみじめに思えた。こんな酷い裏切りはない。
風呂場から音がして、史也が上がる気配を感じて慌ててスマホを閉じる。涙が止まらなかったが、無理やり顔を拭った。史也に対してどうしたらいいか、まだなにも考えられなかった。音が、心配そうにこちらを見上げていた。朋奈に黙って、不倫相手に会っていた子。もう、裏切り者にしか見えなかった。
*
史也は、その日の違和感に気づいてしまった。いつも着信音がわかるところに置いておくスマホを、風呂場に持っていくのを忘れる。そのあと、朋奈の様子がおかしかった。ここ数日はずっと不安定だからいつものことだと思ったが、完全に史也を避けるような行動をとっていた。とりあえずそのことを片隅に追いやり、スマホに何も連絡がないか確認しようと開いて気づく。里穂からのメッセージがそのまま開いていた。それを読んだ記憶はない。朋奈が、見たのだろう。そう言えばかなり昔に、パスワードの話をした覚えがある。史也は一度部屋を出て、落ち着ちつこうとメッセージを目にする。史也にはやましいことはひとつもない。ただ、会食だと嘘をついていたことは間違いない。そして会話だけを見るとどう言い繕っても、「家庭の事をすべて相談している相手」だった。朋奈がこれを見て、友達かと納得してくれるとは到底思えない。今の朋奈の精神状況で、不倫を疑ったらどうなるのか、史也は考えたくもなかった。今の朋奈がどういう行動に出るか、史也には予測もつかない。万が一のことを考え、里穂に状況を説明するメッセージを送った。秋月里穂、という本名が表示されてしまってる以上、里穂には言っておかなければいけないだろう。まさか、里穂を探し出してどうこうするというようなことはないとは思うが……
とにかく、タイミングを見て誤解を解かなければ。しかしどう言ったら納得してくれるのか、まったく自信がなかった。
里穂からすぐに連絡が入った。「私がちゃんと説明をします」という申し出だった。里穂は、なかったことを証明するのは難しいので、とにかく本当のことを誠実にちゃんと話すべきだ、そうするしか他にはないと思う、という。そのために、自分も説明をする、と。
史也は、もうこれ以上里穂を巻き込むことは避けたかったが、一人でどれほど言葉を尽くしても、嘘をついていた以上信じてもらえる自信はなかった。里穂のあの物言いと説得力、そして若さを見たら、そんな関係ではないと分かってくれるかもしれない。里穂には、申し訳ないが困ったらお願いするかもしれない、とメッセージを送った。ちょうど翌日が土曜日だったので、明日ちゃんと話そうと考え、その旨も伝えた。念のため住所を教えて欲しいと言われたので、それも送った。
翌日、朝になっても朋奈は起きなかった。こんなことは今までに一度もなかった。体調が悪い時は、寝ながらでも史也にそう伝えた。しかし今日は、何一つ発することなく布団から起き上がる気配がない。史也は一度起き、子どもたちがまだ寝ていることを確かめて、朋奈に声を掛ける。
「具合が悪いのか? 大丈夫か?」
しばらくなにも反応せず、寝ているのかと思ったらゆっくりと首を横に振った。しかしなにも声を発しない。
「そうか、良かった。子どもたちはごはん作るから、寝ててな」
史也はそう言ってキッチンに向かう。史也も、休みの日は料理をすることもあるので、朋奈が不調であっても家族の分くらいの食事はなんとでもなる。キッチンや冷蔵庫を確認し卵とパン、ハムがあるのを見つける。トーストを焼いて、ハムと目玉焼きをその上に乗せる。キャベツがあったので、刻んで添える。ドレッシングを冷蔵庫から取り出す。簡単ではあるが、朝食なのでこれくらいでいいだろう。朋奈は起きてこないが体調が悪いわけではないというので四つ作る。
おそらく、昨日史也の携帯を見て精神状態が悪化しているのだろう……今日話をしたかったが、出来る状態ではなかったらどうするか。しかし、話をしなければ悪化する一方かもしれない。
そう思いながら子どもたちを起こして朝食を食べさせる。顔を洗って歯磨きをして、着替えて……やっと一息ついたころにもう一度朋奈に声を掛けようとすると、起きて寝室を出て来た。
「おはよう」
「ママおはよー」
史也と、子どもたちも声を掛けるが朋奈は言葉を発しない。俯いて、ぼさぼさの髪を直そうともせず、食卓に座る。史也はその様子を見て、どれほど傷を負っているのかを感じ取り胸が痛くなる。やはり、一刻も早く話をしなければいけない。
「朋奈、朝食食べるか。食べれる分だけでも」
そっと朋奈の前にお皿を並べる。しかし朋奈は俯いたまま動かない。
「朋奈……話がある。聞いてくれるか」
史也はそんな朋奈の様子を見て、意を決して声を掛けた。朋奈の肩がピクリと動く。
「……聞きたくない」
「朋奈」
「不倫してるなんて話しは聞きたくない! 言い訳も! 何もいらない!」
「そうじゃない! 聞いてくれ!」
朋奈が顔を上げて叫ぶ。その目は、明らかに泣き明かした跡で赤く腫れていた。そしてまた、涙が溢れている。
「優しくなって、向き合ってくれて、嬉しかったのに……信じてたのに……なんで……」
「聞いて、朋奈、あの人とはなんでもないんだ。ただ、前にあった事件でたまたま助けた人で、それがきっかけで相談に乗ってもらってただけだ。本当にそれだけなんだ」
「仕事の会食だって嘘ついて? なにもないなら嘘つく必要ないじゃない!」
そこを言われると史也は言い返せない。なにも悪いことはしていないし後ろ暗いことはない。だけど、正直に「秋月里穂さんと食事に行く」とはどうしても言えなかった。その上その内容が、「家庭の相談」だから尚更。
「……嘘をついていたことは本当にごめん。でも、どうしても家の相談をしていることは言えなかった。どう言っても、良いようには取られないと思ったから」
「だから、それほど私に不満があったんでしょう? だったらもう、そう言ってくれたらよかったのに」
「どうにか立て直したかったんだ。その一心だった。朋奈と、子どもたちと、より良く暮らせるように、それしか考えてなかった」
それは、史也の本心だった。そのために、里穂に甘えていたのだ。朋奈にとってはいい気持ちがしないだろう、そんなことはわかっていた。だけど、それでもいい方向に行くのなら、それでいいと思っていた。
そう言うと、朋奈は言い返すのを一旦やめて、また俯いた。少しでもわかってほしい、どうか、と祈るように朋奈を見つめる。
「……音と、会わせたの? どうして? ……朱音って呼ばせたの?」
ゆっくりと、俯いたまま問う。ああ、そこか、と史也は思う。そこが、一番の地雷ともいうべきことだったのかもしれない。
「あの子は、朱音だ。音じゃない。朱音なんだよ、朋奈。この先のことを考えたら、朱音と本当の名前で呼んでほしい。あの子のために、頼むから」
「……どうしてわかってくれないの……わかってくれてると思ってたのに……」
「朋奈、聞いてくれ。俺は朋奈を愛してる。諒のことも愛してる。家族としてちゃんと一緒にやっていきたいと思ってる。でも、朱音のことを守らなきゃいけない。それは俺の責任だ。朱音に危害を加えるのはやめてくれ。頼む」
どれほど怒鳴られようと、泣かれようと、これだけははっきり言わなきゃいけないと史也は覚悟を決めていた。今まで、朋奈の精神状態が子どもたちに影響するのを恐れて、できるだけ触れないようにしていた。けれど、保育園からの通告、二度目の朱音の頬。もう限界だと史也は判断していた。これでどうにもならないなら、朱音を連れて出て行くしかない、とも考えていた。これ以上の朱音への影響は親として見過ごせない。
いつにないくらい強い口調で本気であることを示すと、朋奈は呆然として、まっすぐ前を見たままただ静かに涙を流していた。どう感じたかはわからない。それ以降、声を掛けても返事をしてくれない。これは、もしかしたら自分一人じゃ無理かもしれない、そう思って史也は立ち上がる。
「ちょっと、休んでてくれ。また話そう」
そう言って一旦外に出た。里穂に助けを求めるために、電話をかけた。
*
史也が、朱音を取ると言った。朋奈より、諒より、守るべきは朱音だと言った。朋奈は呆然としてただ涙が出るばかりだった。やっと愛されたと思ったのに、元奥さんの間にできた、二人の子どもにはかなわなかった。
泣いてる朋奈の足元に、子どもたちが心配そうに駆け寄ってくる。
「ママ、大丈夫? パパにいじめられたの?」
音……朱音がこちらを見上げている。
「だいじょうぶよ……優しいのね、音」
そういうと、照れくさそうに笑う。
ーーこの子さえいなければ。
そんな気持ちが頭をよぎった。
どうせ、また離婚になる。また、不倫をされて、捨てられる。きっと、元夫と同じようにあっさり判を押すのだろう。そして史也は思うのだ。「やっと解放された」と……
そして、朱音と一緒に不倫相手と幸せに生きるのだろう。朋奈と、諒を置いて。
そう考えると居た堪れなくなった。
なんでこんな話になってるのだろう。少し前は幸せだったのに。子どもの呼び名がなんだというのだ。あだ名で呼んでる親などたくさんいるのに、なぜ私だけ。なぜ、朱音だけ。
秋月里穂という女のメッセージが蘇る。『朱音ちゃんが心配です』。音は私の子どもだ。なぜ見知らぬ女に、朱音と呼ばれ心配されなきゃならないのだろう。虐待? 二度叩いてしまっただけだ。そんなこと、育児をしていたらあるだろう。この子じゃなければ、実の子どもだったら、そこまで言われることもきっとなかった。「実子じゃないから虐待するだろう」と見られているのだ。だからただのあだ名も「実子じゃないなら他に理由があるのだろう」と疑われる。これはきっと、この先ずっと続くのだ。……もう、疲れた。
不倫して捨てられる未来も、朱音が「実子じゃないから」と疑われ続ける未来も、どちらももう朋奈にとっては絶望しか感じられなくなっていた。どうせ史也との子どもはできない。史也は、自分より、諒より、朱音が大事なのだ。
……朱音さえいなければ。
この先、この子が成長して、自分に似るはずのない女性になる。その姿にはきっと元奥さんの面影が残るのだろう。朱音はいい子だ。きっと、いい子に成長するだろう。
ーー私とは違って。
朋奈の頭は、ぐるぐると言葉が洪水のように溢れてくる。止めたくても、止まらなかった。昨日の夜もずっとこの状態で、眠れずにずっと泣いていた。史也は、そんな朋奈に気づくこともなく眠っていた。
もう限界だ。朱音と一緒に生きていくことは、できない。そう思った。だけど、それは史也との離婚を意味する。史也と別れて生きていく自信は、もうなかった。
「あんたさえ……居なければ……」
口に出すと、それが最善策のような気がした。朱音さえいなければ、問題はなにもない。そう思えてならなかった。
史也は外に出て行った。きっと不倫相手と連絡をしてるか、会いに行ったのだろう。「相談」という言い訳を使って。涙が止まらない状態の妻を残して。
「ママ……?」
「うるさい!」
朱音の心配そうな声に苛立って朱音を突き飛ばした。後ろに倒れて軽く頭を打つ。痛みからか驚きからか、朱音は大声で泣き始める。
転んで泣き叫ぶ音の首に手を伸ばす。細くて白い首。少し閉めたら、すぐに折れてしまいそうだった。
「ママ……?」
泣きながら呼ばれてはっとする。なにをしようとしていたのか。
諒が驚いて朱音に駆け寄る。「音ちゃん大丈夫?」と、朋奈のことなど見ようともせずに朱音の心配をする。
諒は朱音に懐いていた。この状況で、諒は泣いてる朋奈より朱音に駆け寄っていく。当然のことかもしれない、しかし、朋奈にはそれすらも、裏切られたような気がした。
ーーあんたさえ、居なければ。
朋奈は立ち上がる。キッチンに、先ほど史也が使ったであろう包丁が目に入った。
そうか、と思った。
朱音と一緒に、自分も死んでしまえばいいんだ。それは妙にはっきりした、希望のように思えた。包丁を手に取って朱音に向かう。
「朱音……朱音のせいだよ……ぜんぶ、あんたのせいだ……」
朱音は泣きながら、ただならぬ朋奈の様子を察知する。泣き止んで、怯えたようにこちらを見ている。
「ママ……?」
「大丈夫、ママもあとで一緒に行くから」
諒が朱音の隣で火が付いたように泣き叫ぶ。
後ろでドアの開いた音がした。
「朱音!!!」
何が起こったのか、わからなかった。気づいたら、持っていた包丁は血にまみれていた。そして、そこには血に染まった史也の姿があった。史也は朱音をかばうように、抱きしめていた。包丁はお腹のあたりに横からざっくりと刺さっている。
朋奈は、朱音を殺そうと思った。間違いなく殺意があった。なのになぜ、血を流して倒れているのは史也なのか。なにもわからなかった。泣き叫ぶ諒と朱音の声が遠くに聞こえた。
第11話
