「幻日」 第4話
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朱音はいびつな文字を見て混乱していた。
学校から帰宅し、郵便受けに入ってる郵便物を持っていく。それはいつも朱音の役割だった。チラシやDMの中に混じって、『伊崎 朱音様』という手紙を見つける。手紙をもらうような覚えがなかった朱音は、不思議に思いそれを左手に移して裏を見る。送り主の情報はなにも書いていなかった。
「ただいま」と声を掛け、リビングのテーブルに自分宛以外の郵便物を置く。「おかえりなさい」とキッチンの方から母の声がする。自分宛の手紙を一瞥し、一旦それもテーブルに置いて洗面所へ行き手を洗う。そこに置いてある部屋着に着替え、手紙を持って自室に入る。いったい誰からだろう……そう思いつつ封を開ける。封は、もともと閉じられていなかったのか抵抗が少なく意外なほどあっさり開いた。出てきたのは新聞に包まれた一枚の便箋。
そこには、定規で書かれたようにいびつで赤く、細い文字が並んでいた。
『十年前を忘れるな』
そこに込められた悪意のようなものを感じて、朱音はぱっと手紙を手放す。便箋は朱音の手から離れ、ひらりと床に落ちていく。
十年前。朱音が両親を失い、施設に入るきっかけになった事件があったのが十年前だ。
朱音はその事件をあまり覚えていなかった。このまま忘れたままでいるか、思い出すかはわからない、と医者に言われていた。今まであまり思い出すことはなかった。ただ、知識としては中学に上がる時に聞いていた。父親が不倫をして、それに激昂した母親が朱音に向かい、それを庇った父親が刺された、と。その場所には朱音もいた。しかしぼんやりとしか覚えていなかった。母親が父親を刺す姿を見たとしたら、記憶がなくなるほどのショックを受けるのも分かる、とどこか他人事に感じていた。ただ、昔からよく見る悪夢の原因になっていることは理解している。その事件や前後のことは忘れていても、泣きながら朱音を見つめる目は、記憶に張り付いてる。他人ごとに感じていても、精神的なショックは確かにこの身体に残っているのだ、と思う。しかし十年前の話で、父は亡くなり、母はそれからずっと病院にいると聞いている。朱音は施設に行き、この家に引き取られた。殺人事件だが、夫婦の間で終わった話だったはず。両親には頼れる実家もなかったと聞く。だから、朱音は施設にいたのだ。この事件で誰かが朱音に悪意を示すとしたら……
「父親の不倫相手……?」
関係者を考えると、それ以外いなかった。しかし、だとしたらなぜ。恨むとしたら、そのせいで父親を失い母親と離れ離れになった、朱音の方ではないか。
ふと、手紙が包んであった新聞紙が目に入る。手紙を紙で包むのもよくわからないので、この新聞にも意味があるのか。そう思ってみると、内容はよくわからない、中途半端に途切れた記事ばかりだったが、日付が十年前の八月二十七日だった。もしかしたら、その事件の日なのかもしれない。
翌日、朱音は中学時代の恩師、雑賀と会っていた。放課後少し時間が取れないかと聞くと、雑賀は快く応じてくれた。久々に訪れた中学校の美術室は、卒業してから一年も経っていないのに酷く懐かしい。今日の部活は休みらしく、雑賀は自分の絵を描いていた。聞くと、部員がいなかった中学の美術部には、朱音が賞を取って卒業してからは入部する人がチラホラいるらしい。雑賀は絵を描きながら、朱音を迎える。朱音は雑賀の後ろに椅子を置き、そこに座って雑賀が描く絵をじっと見ていた。相変わらずな多彩な色使いと優しいタッチは朱音をほっとさせてくれる。
「先生は、私の十年前の事件を知ってますよね?」
唐突なのはわかっていたが他にどう切り出せばいいかわからず、直球にそう問うと、雑賀の筆が止まった。心配そうに朱音を振り向く。
「どうかしたか」
「ちょっと前に、絵が切り裂かれてて。で、昨日これが届きました」
あまり持っていたくはなかったが、雑賀に相談するために届いた手紙を持ってきていた。悪意を感じる手紙を持っているのは気分が良いものではないので、今日の相談が終わったら、どこか見えないところにしまってしまおう、と考える。なにかあったときの証拠として、処分してはいけないような気がするのだ。手紙を受け取ると、雑賀はゆっくり開いて眉根を寄せた。
「絵の話は、林先生から聞いていたが……これは……」
「新聞の日づけ見てください。事件の日ってこの日だったか、先生、知ってますか?」
雑賀は朱音の言葉が聞こえているのかいないのか、じっと手紙を見ていた。そしてゆっくり新聞紙のほうに視線を移動する。「八月二十七日……」と呟く。
「はっきりとは覚えていないが、このあたりの日づけだったとは思う。ちょっと待っててくれ」
そう言って雑賀は美術室を出て行く。
こんなことを雑賀に相談するのは申し訳なかったかな、と思いつつ、事件を知ってる人を、他には当時受け入れてくれた施設の職員しか思い浮かばなかった。一緒に暮らしていたが、そこまで深く関係を持っていたわけではないため、気軽に連絡が出来なかった。でも、朱音は雑賀のことは頼ることができた。雑賀が戻るまで、絵がしまってあるロッカーからゆっくりと、ていねいに絵を取り出して眺めていた。ほとんどが雑賀の絵で、たまに生徒のものらしき絵が混じっている。拙いデッサンを見て、自分が必死にここで雑賀からデッサンを学んでいたことを思い出す。バランスのとり方、影の描き方、大きさの測り方。これを描いてる生徒も、あんな風に習っているのだろうか。そんなことを考えていたら、雑賀が戻ってきた。
「間違いなく八月二十七日だったよ」
「ありがとうございます。……何を見て来たんですか」
「当時、伊崎家に話を持っていくときに、施設から話を聞いたんだ。そのときに少しだけメモしていた内容を見て来た」
「そうですか……」
だとしたら、知ってる内容は朱音とそう変わらないだろう。
「差出人に心当たりはないのか」
問われて朱音はゆっくり首を横に振る。
「あの事件は家庭内で起こったことだし、それで伊崎を恨むような人はいないだろうし……」
朱音が考えていたことと同じようなことを雑賀は言う。
「伊崎さん……ご両親には話していないのか」
そう問われて、朱音は俯き、静かに首を横に振る。両親に話そうとは考えもしなかった。余計な心配はかけたくない。特に義母、綾子は、とにかく朱音のコンクールの行方を気にしていた。もしこの話から絵が壊されたことへ話が繋がったら、警察沙汰にしようとするだろう。そうなると、学校は大騒ぎになる。朱音は、大ごとになることは避けたかった。
「先生、私が絵をやめたらどう思いますか」
朱音の言葉に、深刻そうにしかめ面をしていた雑賀が驚くように朱音を見る。
「やめたいのか?」
「やめません。両親のためにも、描かなきゃいけないと思ってます。でも……」
「……伊崎」
朱音の言わんとすることを察したのか、それ以上言わせないように言葉を遮る。そして椅子に座っている朱音に視線を合わせるようにしゃがみ込み、ゆっくり言う。
「伊崎は絵の才能がある。それは間違いない。だけど、忘れるな。伊崎朱音の価値は、その存在自体にある。絵をやめるも、やめないも、自分で決めていいんだよ」
「……絵を描いてなくても、先生は私の話を聞いてくれる……?」
「当たり前だ、いつでも頼れ」
雑賀は優しく朱音の背中をぽんと叩く。自分の信じる方へ行きなさい。そう言われた気分だった。
翌日、朱音は放課後美術室で絵を描きながら考えていた。
絵を切り裂かれたこと、悪意の籠った手紙。同一人物だろうか。昨日雑賀に確認してもらったように、日付まであってるということは間違いなく十年前の事件を知ってる人間だろう。絵のことはどうせ同じ学校の生徒がいたずらしたのだろうと軽く考えていたが、違ったのかもしれない。朱音は良くも悪くも特殊な生徒だった。その上自らコミュニティに入ろうとはしない。目立つ人間をとにかく嫌う人がいるのは知っている。現に、美術室には簡易的に監視カメラが取り付けられた。顧問の林が掛け合ってくれたのだろう。他の部活じゃこうは行かない。学校側は、朱音が「賞を取る絵」を描いていると思っているからこその対応だ。朱音はこういう学校側の対応をありがたく思う反面、そういうところを他の生徒が良く思っていないことも分かっていた。
朱音はカンバスに向き直る。今回送る作品は五十号。出すのは、年に一度の、一番大きな高校生の絵画展だ。入賞すれば、都内の有名美術館に展示されることになる。学校はその入選を期待している。学校だけじゃない、朱音を育て、不自由なく支援してくれる両親の期待に応えないわけないはいかない。それは、朱音の居場所を守ることに直結している。きっと、落ちたところで出て行けとは言わない、そういう人たちじゃないことはわかってる。だけど、朱音自身が居づらく感じてしまうだろう。それは避けたかった。
一度描き直しになっただけに、急がないといけない。そう思いつつもなかなか筆が乗らないでいた。一度描いたものをもう一度描くことはできる。だけど、なんとなくもう少しだけ、違うイメージを描きたくなっていた。それがどういう形なのか、まだ頭の中でまとまらない。今回のコンクールに入選できたら、次は高校生のものではなく一般の絵画コンクールに出そうと顧問の林には言われていた。雑賀もそれに賛成していた。雑賀も林もとてもいい先生で、二人にはとても感謝していた。その思いにも応えたい。
ふと、音弥の顔が頭に浮かぶ。彼もこういう気持ちと日々戦っているのだろうか。中学時代までに感じて来た朱音の不安を今、音弥も背負っている。悔しさや怒り、それにどこか諦めてるような瞳が頭をちらつく。
ーー人物画でも、いいかもしれない。朱音はふと、そう思う。音弥のあの何とも言えない表情を描いてみたい。はじめて他人に対して、想像力を掻き立てるような気持ちが沸き上がった。今度会ったら、写真を撮らせてもらおう。できればスケッチさせてもらおう。朱音はそう思い、音弥にメッセージを送った。
「じっとしてればいいの?」
メッセージを送るとすぐに返事がきて、朱音は音弥と以前来た公園にいた。音弥はちょっと戸惑ったようだが、拒否はしなかった。ちなみにメッセージの返事は「よくわからん。あとで」というものだった。スマホで写真を数枚撮り、持って来たスケッチブックに鉛筆を走らせる。音弥はそれを物珍しげに見ている。
「ごめん、できればあっちの……空の方見てて」
視線の先を指定すると、音弥は黙って視線を移動させる。綺麗な目だな、と朱音は思う。この目はいったい何を見てきて、何を感じ取っているのだろう。
「朱音は、自分が好き?」
沈黙に気を使ったのか、音弥が聞いてくる。自分が好きか。考えたことがなかった。
「うーん、考えたことないけど、好きではない、かな」
「なんか最近、よく自己肯定感が大事とか言うじゃん」
音弥の言わんとしてることがわからず、先を促すように黙って手を動かしていた。
「自己肯定感が低いやつはだめで、高いやつはいいんだって。で、じゃあその自己肯定感を高くするにはどうしたらいいかと思ったら『幼少期の親の愛情が大きく影響します』。」
「……ああ、あるね、そういうの」
それを現在「自己肯定感が低い人間」に見せて、どうしろというのだ。朱音もその手の話にはどうしようもない気持ちになることがある。まともに育つために必須なもの、「親の愛情」。子どもはいったいどうやって、親に愛されたら良かったのだろう。親に愛情をもらえずに成長した子どもがそれを見て、いったいどうすればいいのだろう。おそらくは良かれと思って流れてくる情報が、唐突に胸を突き刺してくることがある。「そんなことは子育て中の親に言ってくれ」と、無意味だとわかっていてもどうしてもそう思ってしまう。
「親に愛されなかった時点で欠陥人間って言われてる気がする」
空に向けられる音弥の目がきゅっときつくなる。朱音は一度スケッチしていた手を止める。
『そんなことないよ』『これからきっとたくさん愛されるよ』そんな言葉が全て無意味なことは、朱音は身をもって知っていた。
「音弥は……いいやつだよ」
音弥の視線が一瞬朱音に向く。朱音は微笑んだ。音弥はそれを見て、慌てたように視線を空に戻す。きつくなっていた目が、困惑した表情に変わる。その変化を、微笑ましく思う。
一通りスケッチさせてもらったあと、暗くなる前に音弥とは別れた。お互い夕飯の時間には帰る。朱音は、音弥に十年前のことを話せずにいた。もしかしたら、自分の境遇を知ってもらうことで朱音の言葉に説得力が増すかもしれない。自分も同じような環境だった、だから音弥の気持ちがわかるよ、と。そう思うと同時に不幸自慢のようになるのも嫌だと思ってしまうのだ。朱音の今までの経緯は、施設の中でも特殊なものだった。それを言うことで、「音弥のほうは大したことないじゃない」と捉えられるのが怖かった。その気持ちがあって、手紙が来たことも言えずにいた。あの話をするにはどうしても十年前の事件や、朱音の境遇を話さなきゃならなくなる。
最寄りの駅で電車を降りて、自宅へと向かう。自宅までは徒歩二十分というところだった。まだ暗くはない時間だが、今日は人通りが少なめだった。大きな通りを歩いてもつくが、小さな路地に入る方が近い。暗くなるとさすがに危険なのでその道は通らないのだが、今日はまだ大丈夫だと思いその路地に入る。しばらく歩いたところで、朱音は後方の人影に気づく。一定の距離を保って誰かが付いてきてる気がした。気のせいかもしれない、たまたま同じ道を通ってるだけかもしれない。だけど、朱音が足を速めると相手も早め、緩めても距離が縮まらない。朱音の脳裏に、手紙の赤いいびつな文字が浮かぶ。ーー怖い。
スマホをぎゅっと握りしめる。いつでも通報できるように準備する。「ここからなら走れば追いつかれずに大きな通りに出られる」と思う距離まではできるだけ速足で、相手に気づいたことを悟られないように歩く。そして、その距離で一気に走る。後ろから「あっ」という声が聞こえる。気のせいじゃなかった。そのままマンションまで走り切り、焦る気持ちを抑え、後ろに人影がないか確かめながらオートロックを解除する。自動ドアが閉まると、その場で座り込む。鼓動が耳まで響くように脈打つ。怖かった、と思うと同時に朱音の仕事のはずの郵便受けを開けられなかったことに気づく。嫌な汗が流れていたのもあり、五分ほどその場で落ち着かせる。それから、そっと自動ドアを開けて郵便受けの中のものを取り、急いでまた中に入る。その間も、住民以外の怪しい人間が来ないか緊張していた。走っていた時と同様、何かあったらすぐに通報できるよう、スマホを握りしめていた。幸いなことに、その五分の間にはマンションの住民すら入ってこなかった。
本当の母親なら、「誰かに追われて怖くて郵便物を持ってこれなかった」と言えるだろう。しかし朱音にはそれができない。追われたことも言えない。だから、郵便受けのものは怖くても朱音が持っていくしかないのだ。朱音は大きく深呼吸して、緊張で固まった身体をほぐす。綾子に不審に思われないよう、表情もいつも通りを心掛けて、家に入った。
第5話
