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「幻日」 第5話

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 最近、史也が優しい。以前は明らかに朋奈のヒステリックな感情や疑いに困惑し、疲れていたのを感じていた。それを感じるたびに、もうやめよう、二度としないと誓うのだが、翌日には同じことを繰り返してしまう。そして、嫌われるかもしれない、自分だったらこんな女絶対嫌だ、別れる、と考えひどい不安に陥る。悪循環だとわかっているのに、どうしようもない。仕事なのに早く帰ってほしいと言われることが史也にとってどれほど負担になっているか、頭ではわかっているのに、止められなかった。
 そんな中、史也が変わった。朋奈が不安になってそれをぶつけてしまった時、時間をかけてでも朋奈に向き合うようになった。何が嫌だったか、どう思ったのか、落ち着いて会話をしてくれる。泣いてるときも泣き止むまで待って、落ち着いたら「どうしたのか」「なぜそう思ったのか」問うてくる。どれほど夜遅くなっても、疲れひとつ見せずにちゃんと会話ができるようになるまで向き合ってくれる。そして落ち着いて要望を言えたとき、史也はそれを受け止めてくれる。大体は「不安」だったり、「子どもが欲しい」というどうしようもない要望だった。それを吐き出しても、史也は嫌な顔せず受け止めてくれる。泣いて、泣いて、落ち着いて、最後は笑顔で、「ゆっくり寝よう」と誘ってくれる。そういう対応をしてくれるようになってから、「嫌われてしまうかもしれない」という感情が薄れて、翌日繰り返すということがなくなってきた。史也が、朋奈の感情を受け止めようとしてくれるのがわかる。史也が朋奈を、大切に扱ってくれているということを実感できるようになってきた。
 それに伴って、子どもたちふたりへの対応も優しくなれているという実感もあった。特に音には、どうしても強く当たってしまうことが多く、朋奈自身それについて自己嫌悪を繰り返すようになっていた。それが史也へぶつけることになり、史也に嫌われることを恐れて感情が暴走して子どもに当たってしまう。最悪な悪循環だった。音に対する態度を、史也にバレるのが何よりも怖かった。前に一度、手を上げてしまったことがある。そのあと、『虐待』という言葉が頭を駆け巡り、泣いてる音に対し、朋奈自身も泣きながら謝った。諒も困惑し、一緒に泣いていた。音は、泣いてる朋奈に、ぎゅっと抱きついてきた。少し前に理不尽に手を上げた朋奈に、抱きついてきたのだ。その事実に朋奈は余計に自分を責め、涙が止まらなくなった。二度と子供には手を上げないと誓ったが、その夜、史也に音の頬の腫れを指摘された。バレたかもしれない、疑われているかもしれない。そんな不安な日々が続いた。史也が変わったのはその直後だった。何が史也を変えたのかはわからない。それでも朋奈の精神の不安定さはかなり緩和された。もし辛くなったら心療内科へ行こう、朋奈が悪いわけじゃないよ、と史也が優しく言う。そうか、病院に頼ってもいいんだ、と朋奈は思った。自分自身でさえ扱いきれない感情があることを、ここ数年嫌というほどわかっていた。それをコントロールできるのなら、病院を頼ってもいいのかもしれない。素直にそう思えるのも、史也が向き合ってくれていたからだった。
 音は優しい子だった。それを感じるたびに、元奥さんの存在がちらついて苛立っていた。しかし、史也が向き合ってくれるようになってから、音の優しさは史也からのものだと思えるようになった。そう考えると、朋奈を苛立たせる元奥さんの存在を少しだけ薄くできるような気がしている。この子は、愛する人の遺伝子を持った優しい女の子だ。

 *

 史也は、あれから里穂としょっちゅう連絡を取り合うようになった。とにかく現状をどうにかしなければならないという気持ちが強く、色んなことを調べながら里穂に相談していた。里穂も里穂で、調べてくれたり、知り合いを辿って詳しい人に話を聞いてくれたりしていた。ちゃんと向き合って会話をすること。それは里穂からのアドバイスだった。
 仕事で疲れている、どうしようもないことをぶつけてこられても困る、そんな思いはきっと相手に伝わって、悪循環にしかならない。とにかく「感情が抑えられないその状況も、ちゃんと見てるし全て受け入れるよ」という姿勢を見せるべきだと思い、出来る限りの時間を使って朋奈に向き合うようになった。
 そういう対応を続けると、朋奈は目に見えて落ち着く日が増えて来た。史也が遅くなっても、ちゃんと連絡を入れていると「おかえりなさい」と笑顔で出迎えてくれる。食事も準備してくれていて、史也が食べる時には向かいに座って今日あったいろんな話をしてくれる。それは、朋奈が不安定になる前の日常だった。史也は、かつてこの日常を愛おしく思っていたことを思い出していた。
 朋奈にも、不安なことがあるならため込む前に相談してほしい、と伝えてあり、日常の子どもたちの様子を伝えられることも多くなった。史也が自分に課しているたった一つのことは「絶対に聞き流さないこと」。正直、仕事で疲れているときやミスがあり明日の対応に頭がいっぱいになる時もある。そんなときは、それを伝えた上で、できるかぎり耳を傾けるようにしていた。仕事のことも、家で考えていても仕方がない、と割り切るようにもなっていた。今のところ、それで仕事に支障が出ることはなかった。最初の頃は夜遅くまで朋奈と向き合い、翌朝が辛い時もあったが、安定してからはそんなに遅くまでかかることもない。懸念していた娘の怪我も、あれ以降変な傷もなく、変わった様子も見受けられない。すべてが順調に行っているように思っていた。そしてそれは、間違いなく相談に乗ってくれていた里穂のお陰だった。
 その日久しぶりに里穂から連絡があり、最初に会った居酒屋で会うことになった。史也としても、今とても順調に行ってることの報告とお礼がしたかったのでちょうど良かった。朋奈には仕事で会食になる、と伝えてあった。
「上手く行ってようで、本当に良かったです」
 ビールを飲みながら、里穂は笑顔でそう言った。
「秋月さんのお陰です。本当にありがとう」
 的確な情報やアドバイスはもちろんのこと、なにより史也は、「話を聞いてくれること」に救われていた。そしてそれに気づいたことで、朋奈に対しても「ちゃんと向き合って話をすること」の重要性にも気づくことができたのだ。里穂は弱気な史也の言葉に、「大丈夫です、奥様を信じましょう」と不安を振り払うように断言してくれた。里穂の言葉は、心強かった。最初の頃、これで本当に大丈夫か、こんなことを続けてると自分の仕事に支障が出ないか、不安になってるときの里穂の「大丈夫です、信じましょう」の言葉に何度も救われていた。
「さすが人の気持ちを考える仕事をしてるんだなと感心する。仕事の成績もいいんでしょう」
 史也は、どちらかというと営業向きなタイプではなかった。今の立場になって、外部と接することやプレゼンをすることも多いが、実はそこまで得意ではない。そうも言っていられないので、虚勢を張りつつ頑張っているが。里穂は、そういう『人の心を掴むこと』が得意なように見えた。
「いえ、私は何も。今日お誘いしたのは、こちらこそ改めてお礼を言いたくて」
 何の話だろう、と首をかしげる。目いっぱいお礼を言おうと思って来たのだ、逆にお礼を言われるようなことに全く思い当たらなかった。
「実は、あのとき捕まえてくださった男が逮捕されていたんですが……余罪が発覚しました」
 里穂を襲った男は、翌日のニュースになっていた。朋奈にも、「このニュースだ」とあの日遅くなった事情を改めてニュースと共に説明していた。
「あの男……牧田という男なんですが、当初も警察が調べていた事件が牧田の仕業だったと確定したようで。未遂のものもあり、中には未遂じゃなく……襲われてしまった女性もいたとか」
 史也はそれを聞いてぞっとした。間違いなく、あの男は連続婦女暴行事件の犯人だったということか。里穂の時は未遂で済んだが、すでに罪を犯していたとは……
「やっと本人も認め、裁判中です。判決はまだ出ていませんが、実刑は免れないだろうという話です。目についた女性を追い襲うということを繰り返していた、質の悪い連続暴行犯。深沢さんが捕まえた男は、そんな男でした。本当にありがとうございます。あのとき深沢さんがいなかったらと思うと今でもぞっとします」
「本当に……良かった。俺がいたのはたまたまで、捕まえられたのもたまたまだけど、そんな偶然が重なって本当に良かった。被害に遭った女性には同情しかできないが……」
「そうですね……それでもそのままのさばっているより、ちゃんと罪に問われる方が絶対いいに決まってます」
 史也は、この里穂のきっぱりとした物言いにとても好感を持っていた。人を気遣いながらも、迷いがない。あんなに危険な目に遭っても、同じ男である史也に真正面からぶつかってくる。強い女性だな、と思う。
「お子さんたちも、お元気ですか」
「うん、あれから変わったこともなく、ふたりとも問題なさそうだ」
 良かった、と里穂は笑い、美味しそうにから揚げを頬張っている。
 実はあの後一度だけ、娘を里穂に会わせる機会があった。朋奈と向き合おうと決めた矢先で、虐待の心配もぬぐい切れていなかったころ、諒が熱を出し、病院に連れて行くことになった。ちょうど土曜日で会社が休みだったこともあり、史也は娘とふたりででかけることにした。ショッピングセンターで昼食を取り、夕方に公園で遊んでるときに、里穂に連絡してみた。里穂は、良かったら娘さんに会ってみたい、と言い、夕方に合流した。里穂は、どういう子なのかその目で見たかったのだろう。深く相談に乗ってもらってる手前、そのほうがいいかもしれないと史也も思った。
 小一時間ほど、一緒に公園で遊んだだけのことだったが、娘は里穂に良く懐き、彼女も驚くほどに良い笑顔で接していた。子どもが好きなのかもしれない。
 そのこともあり、里穂は子どものことを良く気にかけてくれている。本当にありがたいことだった。
「子どもにとって、ご両親が仲がいいのが一番です」
「そうだな。秋月さんは、子どもが好きなの?」
「そうですね。子どもは純粋で可愛いと思ってます」
「結婚とかは考えないの?」
 言ってしまってから、これは言ってはまずかったか、と思ったが、里穂は気にした素振りもなく、表情を変えずに答えた。
「いずれはできたらいいな、とは思っていますが。ひとりではできないことなので」
「秋月さんのような人が、望んでできないはずがないよ」
 本心からそう言うと、里穂はちょっと照れたように視線を下に逸らした。

第6話

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