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「幻日」 第6話

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 その日から、朱音は登校中も視線を感じることが多くなった。それも、気のせいじゃなければ、ひとりじゃない。そう感じるのは、ひとりは明らかに存在を誇示しているように感じるからだ。
 先日追いかけられた相手がまさにそれで、完全に隠そうとしていない、寧ろ朱音を怖がらせるためにやっているような気さえする。そうかと思えば、視線だけを感じることもある。しかし危害を加える様子はない。最初はその場面によって変えているのかと思ったが、パターンがわからない。最近は、その行動の違いに、別人ではないかと思うようになっていた。しかし、相手には全く思い当たらない。
 学校の生徒の嫌がらせややっかみだとは思えない。あの人たちの行動理由は「楽しいから」「気に食わないから」という程度のもので、放課後を何日も費やすほどの時間や労力はかけないだろう。そこまでの深い恨みを買った覚えはない。
 同じコンクールを狙う人の嫌がらせだろうか、とも考えたが、そこまでいくと考えたところで検討が付かないのでやめておく。それに、手紙との関連性もない。手紙は、一週間に一度程度の割合で届いていた。内容はほぼ同じで、一言赤くいびつなメッセージのみだった。しかし、最初の手紙以来新聞紙は入っていなかった。十年前に起こった事件の関係者なのか……朱音は、積極的に十年前の事件を調べることを避けていた。覚えていないものは、きっと朱音の心がそれを拒否しているからだ。無理やり思い出したり、調べたりはしたくなかった。思い出したとき、自分がどう感じるのか、どう動くのか、怖かった。月に一度通っている心療内科の先生にも、無理に思い出さないほうがいいと言われていた。しかし、実際に身の危険も感じているのも事実で、どう対応すべきか判断がつかずにいた。
 そんな気持ちとは裏腹に、絵は順調だった。あの日、音弥に写真を撮らせてもらった翌日、ざっと下書きをして美術部顧問の林に相談した。コンクールに出す作品を変えたい、と。林は朱音の話を聞いて、感心したように頷いた。
「とてもいいと思う。やってみたらいいよ。私は以前から、伊崎さんの人物画には興味があったんだ」
 そう言ってもらえて、朱音は安心した。雑賀にも、簡単にメッセージアプリで報告すると、林と同じような返事が返ってきた。「伊崎の描く人物画には興味がある。是非完成させてほしい」と。
 朱音が描きたいのは、あの日感じた音弥の孤独と葛藤だった。悔しさ、寂しさ、憤り、不安、そしてすこしの期待。その目の先には未来がある。朱音は、自分のことに対してはそんな風に思えなかったが、音弥に対してはそう言いたくなる。言葉にすると陳腐で、朱音がそれまで大人に言われてきたような、他人事のテンプレートのようなものにしか感じられず、だからこそ絵にしようと思った。
 あの時音弥が言った、「親に愛されなかった時点で欠陥人間って言われてる気がする」。それを否定するために、朱音は絵を描いている。自分が思った以上に音弥に対して感情を寄せていることに気づいて苦笑する。雑賀に対しては信頼と感謝があるが、同年代の人間にここまで感情を動かすのははじめてかもしれない。ふと、恋愛感情か、と思い浮かんだが、すぐに否定した。多分これはその類の感情ではない。どちらかというと同士……家族に近い感情だった。
 大きなカンバスに、瞳を描く。表したい感情を、色に乗せていく。絵の中の彼の感情は、音弥のものか、それとも朱音のものか。おそらくそれらが混じり合ったものになっていくのだろう。久しぶりに、中学の頃のように「自分のために」絵を描いている気がする。伊崎家の子どもになってからは、初めてのことだった。驚くほど筆が乗った。ギリギリだと思っていた提出までの期限も、この分だとかなり早めに出来上がりそうだった。描きかけの絵を林が覗き、嬉しそうに頷く。林の反応は、中学時代の雑賀にそっくりで、朱音はつい笑ってしまう。その理由を林に話すと、ちょっと不満げだったことも朱音には面白かった。
「僕のほうが先輩だから、似てるのはあいつの方ね」
 そう念を押された。今度雑賀に会ったら伝えてみようと思う。
 雑賀が美術の先生になったのも、林が勧めたそうで、二人の関係は深いようだった。林の描く絵は、雑賀の明るくビビットな色使いな風景画はまた違い、落ち着いた色遣いが多い静止画が多かった。朱音は林の絵を見るのも好きだった。二人の目には、色んなものがこう映るのか。同じものを描いてもきっと全く違うものに仕上がるのだろう。ふと、もし音弥が絵を描くならどんなものになるのだろう、と考えてみた。きっと彼は、そんなことはしないのだろうけれど。

 音弥に絵の順調さを伝え、「見たい」と言われたが「出来上がったらね」と伝えていた。スマホで写真を撮って送ることもできるが、なんとなく音弥には完成してから見せたかった。できれば、コンクールで入賞して美術館に飾られたのを見て欲しい。朱音が自ら受賞を意識するのは初めてのことだった。そうしたらきっと、義母も喜ぶだろう。
 モデルのお礼、と称してまたペットボトルを購入して音弥に渡す。なにということもなく、二人で公園に来ることは珍しくなくなっていた。我ながら不思議な関係だと思う。音弥といると安心できた。
 その日、駅から公園に向かう途中、人が多く歩道で人込みをよけながら公園の方へ向かっていた。少し先を行く音弥に離されないよう、人に流されないように足を速める。車道は車が激しく行き交っている。人をよけて歩道の端、車道のギリギリを通ろうとしたとき、どん、と横から押される。足元がふらつき、朱音の身体は車道に倒れそうになる。が、がくりと膝が折れ、歩道の上で膝をつく。周りが驚いて朱音を避けていく。大丈夫ですか、と声を掛けてくれる人もいた。鼓動が高鳴る。音弥が異変に気付いて振り向く。驚いたように朱音に駆け寄ってくる。朱音の頭は真っ白だった。
「大丈夫か」
 と心配する音弥に
「多分、押された」
 とその時思った言葉をそのまま口にした。
 あれは多分、朱音を狙っていた。

 ふらつく足をどうにか進め、なんとか公園についてベンチに座る。コンクリートに直に打った膝に傷ができて、血がにじんでいた。細かな砂のようなものが覆っている。公園の蛇口で、傷口を洗う。ひりつく痛みで顔が歪んだ。
「押されたって、どういうこと」
 音弥が膝を洗う朱音に問う。
 朱音はここ最近のストーカーのような被害と、手紙の話をした。最初にあった絵が刻まれた話は、音弥はすでに知っていた。
 話を聞いて、音弥は絶句したように何かを考え、言葉を選ぶように口にした。
「それ、ヤバいやつだろ……なんで言わなかった」
「こんな直接危害を加えてくるとは思わなくて」
 正直、どうしていいかわからないと思うと同時に、放っておけばいいと思っていた。なにも気にしない顔をしていれば、いつかなくなるのだろう。それより、警察沙汰にするわけにはいかなかった。両親にばれてしまう。
「私ね、母親に殺されかけたことがあるの」
 水で洗い終え、ハンカチで傷口を抑えてベンチに戻る。音弥の顔を見ないで、朱音は続けた。
「あんまり記憶にないんだけどね。……人の悪意を感じると、その時の母親の顔が浮かぶんだ。そして同時に、申し訳ない気持ちになるの。私の存在が母を追い詰めたんだって。覚えてないのに、そう感じるの。だから、悪意を感じても、あまり怒りにはならなくて」
 十年前の事件も、その前後の話も朱音はあまり覚えていない。後から聞いた話がほとんどだった。それでも、包丁を突き付けてくる母親の顔は、目に焼き付いていた。悲しそうに、泣きながら朱音を見るあの目。
「そんな私をかばった父が、母に刺された。それが十年前の事件。でも、関係者は家族だけで、その事件で恨まれる覚えは本当にないんだ。この手紙の出し主に見当もつかないし、私に何を求めているのかもわからない」
 音弥は朱音の言葉に驚いたのか、しばらく言葉を無くしていた。何かを考えるように表情を変え、そしてそれをかき消すように言った。
「そんなこと言ってる場合じゃないよな、今、一歩間違えば死んでたぞ」
 車道に突き飛ばされそうになったのだ。あれは殺人未遂とも言えるかもしれない。
「でも……どうだろう、本当に突き飛ばす気はなかったような気もする」
 力いっぱい突き飛ばせば、きっと朱音を車道に突き落とすことはできた。でも、それほど強い力ではなかったような気がする。現に、朱音はその場に膝をついただけで終わった。
「それは、運が良かっただけじゃないの」
「そうかもしれない、わからない」
 音弥は朱音の答えに不満げに眉を寄せて、苛立たし気に言う。
「なんでそんな冷静なんだよ!」
 そう言われて、朱音は考える。冷静、なんだろうか。いや、確かに怖かった。今も恐怖は感じている。
「……私ね、積極的に死にたいとは思ってないんだけど、死が来るのなら受け入れる気がするの」
 怖い、と思う。見知らぬ男に追われること、車道に突き落とされること、考えるとぞっとする。それと同時に俯瞰している自分もいる。生きようとしてどうするの、と。そう考えるときに、悪意を感じる時と同様に、朱音に包丁を向けた母の顔が浮かぶのだ。それはもう、一生消えないものなのだろうと思っている。
「私がいなければ、母は壊れなかった。父も死ななかった。そう頭のどこかでずっと思ってる。ごめんなさいって、思ってる。だから、その報いが来るのなら、私は黙って受け入れるような気がする」
 そう、言い終わるや否や、朱音は身体を引き寄せられた。気づけば音弥に抱きしめられていた。
「……そんなこと、言うなよ……」
 音弥の震えるような声が聞こえる。ああ、やっぱりいいやつだな、と朱音は思う。そしてその震える声で、消えそうになりながら、ごめん、と聞こえた気がした。朱音には音弥が謝る理由に思い至らず、聞き間違いだと思った。
 十年前を示唆する手紙が届いてから、朱音はどこか冷静に思っていた。ああ、報いを受ける時が来たのだろう、と。
「でも、私は恵まれているから。いい先生に出会えて、能力を伸ばしてもらえて、いい人のところの子どもになった。こんなことを言ったらバチが当たる……」
 『死にたい』なんて、言えない。音弥や、施設にいる子たちがどれほどの不安を抱えて生きているか、朱音にはわかってしまう。そんな自分が、その言葉を口にすることはできなかった。その気持ちがまた、朱音を苦しめてもいた。軽く事情を知る人たちからの同情と哀れみ、絵が評価されてからは羨望とやっかみの感情。事情をうわべしか知らないクラスメートからの感情はまだ流せる。でも、同じ施設で育った子たちからのやっかみのような感情は、朱音をの精神を摩耗させた。朱音自身も、どうあるべきかわからなくなってしまっていた。
「大丈夫、私は死なない。私は、音弥にもそう思ってる。生きていて欲しい……」
 音弥の腕をそっと離して、向き合う。そこには悔しそうに泣きそうな顔があった。
 愛おしい顔だな、と朱音は思う。少しだけ記憶を刺激する。この子は、朱音にとって大切な存在だ。
「……音弥が、望んでくれるなら生きるよ」
 この子を、不安にさせてはいけない。そう感じることに、朱音自身少し驚きながら、泣きそうな顔をしてる音弥に言う。
 そう言われて、音弥は少し驚くような表情になって、それからきっ、と睨むようなきつい顔をした。
「朱音、犯人を捜そう」

 *

 音弥に犯人を捜そうと言われて、朱音にはそういう気持ちが一切なかったことに気がついた。
 何度も考えてはみたが、事件関係者にそれらしい人がいない。そこで考えても仕方がないとやめてしまっていた。だけど、親にバレずにいたいために警察は頼れない。そう考えると、自分で解決するしかない。直接追われたり、車道に突き落とされそうになったりしてる今、命に関わってきているのだ。もし音弥がそういう目に遭っていたら、朱音は解決しようと動くだろうし、解決しようとしないなら苛立つだろう。
 そう思いながら、朱音は十年前の事件と自分の境遇を、知ってる限り音弥に話した。記憶というよりは、あとから知らされた内容が多いので淡々としたものになったが。
「父親が命を懸けてかばってくれたんだから、父親には愛されていた、と思いきや、母が壊れた理由が父親の不倫なんだよね。なんというか、救いようがない……」
 命懸けで朱音を助けてくれた父親が不倫をしていた、という事実は、当時朱音にかなりのショックを与えていた。そうじゃなければ、父親だけでも信じていられたのかもしれない。子どもを本気で愛する人が、不倫などするものか、と朱音は思っている。そういう意味では母も被害者だったのだろう、と。
「お母さんは、今どうしてるの」
「ずっと入院してる。殺人の罪に問われたけど、精神疾患が認められたらしくて。警察関連の病院にずっといる。私は……事件以後ずっと会っていない。私の医者も、母親の医者も、今は会わないほうがいいだろうって」
 殺されかけた娘と、殺しかけた母親。そのせいで、二人の大切な人を失った。お互い、思い出すような刺激がないほうがいい。それがどちらの医者も共通の判断だった。実際、聞いた話だが、事件後の母はまともに会話できる状態ではなかったらしい。
 悪意を感じる時母親の顔が頭に浮かぶが、一連の事件に関係があるとは思えなかった。母が退院するようなら、おそらく朱音には連絡が来るだろう。
「とすると、残るは不倫相手……」
「そうなんだよね、でも不倫相手に恨まれるいわれがないというか、寧ろ私のほうが恨む立場な気がして」
「でも、世の中には驚くような逆恨みをするやつもいるだろ」
 そう言われると、怪しいのは不倫相手だ。不倫相手が父親を心底愛していた場合、母親のせいでその関係が終わってしまった。その逆恨みを、朱音にしている……。
「可能性はゼロではない、か……というか他に……あ、弟」
「……弟?」
「弟が、いたの。でも、今どうしてるかも知らなくて。小さいころ、よく遊んでた」
 あの事件の現場に、弟もいた。だけど、弟はいただけで、何も関係はなかった。
「……私のせいで、両親を失ったのは弟、か……」
「……いや、それは逆恨み過ぎるだろ。朱音のせいじゃない」
 それを言うなら不倫相手もそうだが、音弥のフォローだと思って受け入れておいた。
「あ、あとね、多分だけど、私を追ってる人、二人はいる気がする」
「は!?」
 重要なことを言ってなかった、と朱音はちょっと反省しつつ付けられている時のことを話す。
「で、最初に追われたときに声が聞こえたのは、男性の声だったと思う」
「不倫相手は……女性、だよな……?」
「た、たぶん」
 父親が同性愛者やバイセクシャルだった可能性はゼロではないが、おそらく女性だろう。とすると、考えられるのは、弟?
「うーん、しっくりこない」
「物理的に考えてみたら。郵便受けにカメラを仕掛けるとか。朱音の後ろ大分離れて俺が追うとか」
「追うのは危険だと思う、音弥にそんなことはさせられない。カメラか……ちょっと調べてみる」
 今は驚くほど小型のカメラがあるというのは聞いたことがあった。それなら、郵便受けに仕掛けられるだろう。ただ、郵便受けの中に仕掛けても、顔が映る可能性は低い。郵便受けの外に仕掛けるのは、さすがにまずい気がする。
「確かに、仕掛けても映るのは手だけの可能性が高いな……」
「よし、張ろう」
「は?」
「手紙は直接入れられてる。郵送じゃない。だから、待ってたらきっと来る」
「学校は?」
「……確実に来るであろう日を予測して、一日だけ休む」
 手紙は、朝行くときにはなくて、帰宅後に入ってる。ということは、学校へ行ってる間に入れられている。さすがに毎日学校を休んで張り込むわけにはいかない。今まで来た手紙は五通。一週間に一度くらいの割合で届いてる。いつ来たか、記憶を辿ってみたら、次に来る日を当てられるかもしれない。同じ曜日だったら間違いないだろう。
「……追うのがダメで張り込みがいいのがよくわかんないんだけど」
「張り込みなら私ができる。追うのは、私を追う人を私は追えないじゃない」
「俺は危険で朱音が危険じゃないわけないだろ」
「これは私の問題だから、私が危険なのは仕方がない」
 そういうと、音弥は今まで見たことないほど眉根を寄せて、心底嫌そうな表情をした。何か言いたそうに口を開いて、思いとどまるように閉じた。
「……わかった、俺も張り込むからな。あと、しばらくは家まで送る」
「なに言っ」
「これ以上聞こえない」
 朱音の言葉を遮り、子どものように両手で耳をふさぐ。その上で「あーあーあーあー」と声を出してる。その仕草が子どものようで、不覚にも朱音は笑ってしまった。
 音弥は中学生だ。こんなことでさぼらせるわけにいかない。そう言いたかったのに、音弥は一切朱音の意見を聞く気がないようだった。
「……わかった、一日だけお願いする」
 折れた朱音に、音弥が勝ち誇ったようににやりと口の端を上げて見せる。
 朱音は、絶対に外さないように手紙の来る日を思い出さなければ、と心に誓う。


第7話

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