「幻日」 第7話
絵は、ほぼ完成に近づいてきていた。
締め切りまであと三週間近くもあり、余裕を持って完成させられそうだった。油絵なので、乾燥するまでの時間も考えて早めに仕上げられるように調整していたが、一度だめになったことを考えるとかなり早く仕上げられそうだ。
今回朱音が参加出展するコンクールは高校生に限られたものだった。学生の絵画コンクールでは一番大きなコンクールで、受賞すれば都内の有名な美術館で展示される。それなのに、出展費がかからない。最初は学生コンクールではなく社会人のものに参加してもいいと林に言われたが、一度高校生のコンクールで結果を出した方が学校も支援しやすくなると言われて学生コンクールを選んだ。綾子は出展費くらい出すと言うだろうが、そういう選択肢があるのなら順を追って出展したかった。それに、雑賀や林が言うほどの実力が朱音にあるのか、疑心暗鬼でもあった。しかし、そう言われての高校生コンクールへの参加なのだ、落ちるわけにもいかない。それなりにプレッシャーは感じていた。
完成しかけている絵を見る。なかなかの出来だと思う。今まで描いてきた絵の中では、とても気に入っている。
「うん、素晴らしいね」
林がいつの間にか美術室に来ていた。
「そろそろ完成かな」
「はい、あと数日で描き終えると思います」
鮮やかに広がる美しい夕焼けを背景に、一人の人物を描いた。色んな感情が混ざり合った瞳と、それを表す色たち。
「これ、受賞できますかね」
「できるね」
きっぱりと答える林に、驚いて次の言葉が出ない。そんな朱音の表情に林は笑った。
「悪い、言い切っちゃいけないね。高校生で、同じくらいの才能を持っている人がいるかもしれないね。でもこの作品は受賞する。……審査委員の目が余程腐っていなければ」
そう言い加えて、いたずらをするように林はにやりと笑った。
「伊崎は、どう思う、自分の絵を」
「……今まで描いた中では、とても気に入っています」
「そうだろうね」
またもや朱音は予期しない返事が返ってきて戸惑う。自分の気持ちを読まれているような気がして、居心地悪く椅子に座り直した。林は絵を見ながら、静かに話し出した。
「雑賀が、いいから見てくれと伊崎の絵を見せてきたときは、どんなものかと半信半疑だった。でも雑賀がそこまで興奮してるところを見たことがなかったんだ。中学校の美術室に呼び出されて、デッサンから、中学時代に受賞した作品まで、すべて見せてもらった。ああ、この子は大成する子だ、と思った」
「雑賀先生が……」
そんな話は初耳だった。雑賀が朱音のために、色々手を尽くしてくれているのは知っていたが、林にデッサンから見せているとは思わなかった。朱音のことを頼むと、林に託す姿を想像する。雑賀は、父親以上に朱音のことを思ってくれているように思う。
「でも今回の絵は予想以上だ。なにか心の変化があったのか」
「……生まれてはじめて、自分以外の人の心を描こうと思いました」
今まで朱音が描いてきたのは、自分の心にある思いのみだった。ある種の吐き出しのようなものである。声にならない叫びや、苦痛、言葉にしてしまうと壊れてしまいそうな思いを、必死で口をつぐんで、キャンバスにぶつけて来た。絵に描いてきたから、朱音は自分を保っていられた。絵が評価されたから、今の家に引き取られ、ここにいる。
「うん、そうなんだろう、今までになかったものが、この絵からは感じられる」
林はそう言ってしみじみと絵を見つめる。
「きっと雑賀も驚くだろうから、林先生に指導されましたって伝えて。きっと尊敬度が増すから」
そう言って林は笑った。朱音も、雑賀にそう言った時の反応を想像して、笑ってしまった。
「伊崎はもっと、この世界の色んなことを感じたほうがいい。それはすべて、プラスになる。この世界が、伊崎にとって素晴らしいものになるはずだ。僕も、雑賀も、出来る限りその手助けをしたいと思ってる」
朱音にとっては音弥と出会った、ただそれだけのことだった。それだけのことが、こんなにも絵に反映されるのか、そしてそれは、雑賀や林が見れば一発でわかってしまうことなのか。
音弥との出会いは、朱音にとっては大きなものだった、それは間違いない。音弥と出会って、朱音自身が変化して行っているのだろう。それは朱音にとって初めての経験で、嬉しくもあり、恐怖でもあった。
その日の夜、部屋で届いた手紙を見直して、記憶を探った。一番最初に来たのが、確か木曜日。その流れで他の四通も記憶を辿ると、記憶が怪しいものもあるが一度目
以降は火曜日に届いていた。その日の授業などを見返して、記憶と合わせてみた。その人が仕事をしている、または学校に通ってると考えると、その曜日がなにかしらの休みである可能性がある、と朱音は考える。部活か、あるいは仕事、バイトか。追われた日はどうだろう、と考えると、はじめて追われた日に、手紙はなかった。しかしそのほかの日を考えると、あまり規則性を感じなかった。気づいていない日もあるかもしれないし、視線があると感じているが実際はない日もあるかもしれない。
この手紙の主は、いったい誰だろう。そして、朱音に一体何を求めているのだろう。十年前の事件の関係者だとして、いったいなにをしたらこの人は納得するのだろう。なにかしらの具体的な要求が来るわけではないので、どうしたらいいのかも朱音はわからなかった。車道に突き落とされそうになったのが本気だとしたら、朱音の死なのか。
朱音の死を望む人物を考えようとすると、母の顔しか浮かばなかった。あまりに気分が悪くなって、思考を止めた。
朱音は、家族への感情を持て余していた。どう感じていいものかがよくわからなかった。母に殺されかけ、父は自分をかばって死んだ。朱音にあるのは、ただその事実だけだった。その事実で、誰かが朱音を憎んでいるのだとしたら、少しだけ、話を聞いてみたかった。両親にとって、朱音はいったいどんな存在だったのかと。愛されないことを嘆くべきか、恨むべきか、悲しむべきなのか。自分の感情のはずなのに、どうあるべきかがわからなかった。朱音を殺そうとした母親が、今ここにいないことも良かったと思うべきなのだろうか。今の義母は、間違っても朱音を肉体的に傷つけようとはしない。精神的にも、故意に攻撃するようなことはない。だからきっと、今の生活が良かったのだろう。なにも嘆くことはない。そう思うのに、朱音にはどうしようもなく空虚なものが心にあるのを感じてしまうのだ。
犯人に聞きたい。あなたはいったい、十年前の何を知っているのかと。
今日は木曜日だった。念のため、来週の火曜日に手紙が届くか確認して、届いたらその次の週に張り込んでみようと思う。音弥に言ったら、きっと来週張り込むと言うだろうから、まだ報告はしない。音弥を何日も休ませるわけにはいかない。本当はあまり巻き込みたくないのだ。だけど、「犯人を捜そう」と言ってくれた音弥のその気持ちが、嬉しかった。
張り込む日が来る前に、絵が完成する。雑賀には一度報告に行こう。ただ、今の状況については、どこまで話そうか朱音は判断がつかずにいた。雑賀も、あまり心配させたくはない。
翌週の火曜日、絵が完成した。これから二日間ほどかけて乾かす。どこかでもう一度引き裂かれたらもう無理だろうと思っていたが、幸いにもそんなことは起こらなかった。手紙の主と同じなら、もう一度なにかしかけてくるかもしれないと思っていたが、林がカギの管理を徹底してくれた。カメラは、犯人は捕らえられても絵は守ってくれない。
そしてその日、郵便受けに手紙は届いていた。開けてみるとい一枚の紙が出て来た。
『お前を許さない』
いつもと同じ、定規で引かれたようないびつな文字が赤字で書かれていた。いったい、何を許さないのか。「もうちょっと詳しく教えてくれないかな」と朱音は手紙に語りかける。
「ごめんね、覚えてないんだ」
誰かはわからない、十年前の事件で朱音を恨んでる人に。
その翌日の放課後、林が雑賀を呼んだらしく、美術室に来ていた。雑賀は朱音の描いた絵を見て目を見張った。その目は絵から離せないというように視線をそのままに朱音に問う。
「……伊崎、なんか、あったか?」
第一声がそれだった。
「林先生のご指導で」
「林先生!」
ぐるんと勢いよく雑賀が林の方へ振り向いて、両手を握る。抱き着かんばかりの勢いに、朱音と林は思わず噴き出した。
「僕は何もしてないよ」
言った通りだろ、というように林は朱音に目配せしてくる。朱音は笑いをこらえられなかった。雑賀は、なぜ笑われているかわからず、不思議そうに二人を交互に見る。
「伊崎が、自分で絵を変えたいと言って描き直したんだ。人物画を描きたいと言って」
「はじめて自分じゃない人の感情を描いてみたんです」
林に説明した時と同じように雑賀にも説明する。雑賀は大きく息を吐いて、朱音の顔を見てからまた絵に目を移す。
「人物画を描くと聞いたときは、楽しみにしていたが……予想以上だ」
「これで受賞できるかな」
「当たり前だ!」
林以上に勢いのいい断言に、また林と朱音は声を上げて笑った。
「どこまで可能性があるんだろうな……すごいな、本当に凄い」
頷きながらつぶやく雑賀に、林も頷く。朱音はこういうとき、どういう反応していいかわからず、気恥ずかしくていつも黙ってしまう。
「林先生、この絵、大丈夫だろうか、またいたずらされたりしないだろうか」
雑賀が心配そうに言う。この絵を描いてるときも、雑賀は途中でまた邪魔をされないか気が気でなかったらしい。
「大丈夫、乾いたら準備室に入れてもう一つカギを付けるし、カメラもある、警備員も一時的に増やしてもらってる」
警備員については、朱音も初耳だった。
林が他の教師に呼ばれ、席を外した。
「あの手紙はどうなった、まだ来るのか」
雑賀と二人になったタイミングで、問われる。
「……週に一度ほど」
雑賀はうむむと唸り、眉根を寄せる。
「他には何か変わったことはないか。手紙だけか?」
「うん、手紙だけ。たぶん、たまたまた事件を知った人のいたずらじゃないかなって思ってます」
朱音は、雑賀にはとりあえず言わないことにした。あの絵を見た雑賀の反応から、車道に突き落とされそうになったなんて知ったらすぐに警察に走りそうだった。それに、雑賀は義母と関わりがある。言わないでくれというのも酷だろう。
とりあえず、来週の火曜日に犯人が分かったら、それ次第で相談しようと思っていた。
音弥にも「多分、火曜日」と連絡を入れてある。来週の火曜日、ふたりで伊崎家の郵便受けを張りこむことになっていた。
「なにか変わったことがあったらすぐに言えよ」
雑賀は心配そうに朱音を見ていた。
翌週の月曜日、明日は学校を休んで張り込もうと思っていたその日、予想外のことが起こった。
朱音は今日は絵も出来上がったし早く帰ろう、と思っていたらホームルームで「伊崎は話があるからこのあと美術室に来てくれ」と担任から呼び出された。いったい何の話だろう、まさかまた絵がやられたのか、と一瞬思った。担任の呼び出し方で、前回のことを思い出したのだ。クラスメートはあまり興味がなさそうに、それでも何人かは「またなにかあったのか」とこそこそ聞こえる。「前に伊崎さんの絵が破られたらしいよ」と。
朱音はさすがにあの完成した絵を破られたらショックが大きいな、と思いつつ美術室へ向かった。扉の前で林と会う。
「伊崎、話聞いたか」
「いえ、何も聞いてないんですが……」
そう言いながら林が美術室のドアを開ける。その林の様子を見る限り、絵が悲惨なことになっているということではなさそうだなと朱音は思った。そうであったとしたら、前回沈痛な顔をしていた林のことだから、もっと暗い顔をしていただろう。それでも、神妙な表情をしており、いったい何が起こったのかと訝しんだ。
美術室にはすでに担任がいた。そしてその奥に、ひとりの男子生徒が見えた。知らない顔だった。
入ってきた朱音と林を振り返り、担任は深くため息をついた。男性生徒の方は一瞬朱音たちの方を見た後、俯いていた。
「昨日の夜、美術室に入り込もうとしていたところを、警備員の人が発見した。ドアを壊そうとしていたらしい」
朱音は驚いて男子生徒の顔を改めてみようとする。が、やはり俯いていてよく見えなかった。
「えっと……なんのために……」
そう呟きはしたが、大体わかっていた。朱音が呼び出された意味。
「伊崎の絵を狙ったんだよな」
担任がそう言うと、男子生徒はびくっと肩を震わせる。
「前回のも、お前の仕業だよな」
そう問われて、うつむいたままだが、ゆっくりと頷いた。
朱音は混乱していた。
いったいこの人は誰だろう。なんのために朱音の絵を壊そうとするのだろう。十年前となにか関係があるのだろうか。朱音と同じくらいの年齢で、あの事件で朱音を恨む人……不倫相手に息子がいて、あの不倫がきっかけに家庭が壊れたとか、そういう話だろうか。
「どうして……? 私があなたに何かした……?」
全く考えがまとまらないまま俯く男子生徒に問いかける。朱音の声を聴いて、彼はゆっくりと顔を上げた。そして首を横に振ってから、朱音の方を向く。
「ごめんなさい。俺は、人に頼まれてやったんだ。報酬欲しさだった。あなたに恨みは何もない」
「頼まれた……? 誰に?」
「それが、友達の友達のつてで頼まれてて直接の面識はない」
「名前も?」
「今、先生にも言われていて、その紹介してくれた友達に聞いてるところなんだけど……まだ返事がない」
彼は、必死で自分がやったわけじゃないと説得するように話している。すでに担任とは色々話しをしたのだろう。自分が主犯ではないと証明するために、依頼主の情報を探っているようだ。
「……あのとき、切り裂かれた絵を見て強い悪意を感じたんだけど、本当にあなたが? 私に恨みもないのに?」
「そういう注文だったんだ。適当にじゃなくて、何度も切り裂いてくれと」
そう言われて、やはり犯人は十年前の事件の関係者なのだろう、と確信した。特別扱いのやっかみに、報酬をかざしてそこまでやるとは考えられない。
確実に、朱音に対して明確な悪意を持っている。
「あ、連絡がきた。相手の名前がわかりました。そいつの名前は――」
第8話
