「幻日」 第8話
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史也とうまく関係が回りだして、朋奈は穏やかな日々を送っていた。ただ、やはり子どもはできなかった。生理のたびに悲しくなるし、病院で先生と話をするたびに涙が出そうになる。けれど、今までのような絶望感はもうなかった。朋奈は、史也に愛されて、愛する子どもたちがふたりいる。子どもができなくても、もうそれはそれで仕方がないじゃないか。あの地獄のような結婚生活から抜け出して、こんな穏やかな家庭を作れているだけで、もう十分じゃないか。史也は、元夫と違って、しっかり朋奈と向き合って、愛してくれているのだから。そんな風に思える日が増えてきていた。
音にも、諒にも、手を上げることはもちろん、声を荒げることも減っていて、そのことは朋奈自身とても心を楽にしてくれた。ふたりはとても仲がいい姉弟に育っている。女の子は男の子に比べてやはり成長が早い。一歳差とは思えないほど、音は「お姉さん」をしていた。もうおもちゃを諒に取られて泣くようなこともなく、「諒、これはここよ」「おかたづけしないとだめでしょ」と口調も含めてお姉さんぶるようなそぶりを見せている。諒は、昔と変わらず音のことが大好きで、相変わらず音をいつも追っていた。
そんな日常が崩れ始めたきっかけは、保育園だった。最近保育園の園長が変わり、今まで決まっていた色々なことに変化があった。朋奈はそれについては多少の不満はあれど、改善されたこともあるので対して気にしていなかった。そんな中、ある日朋奈がふたりを迎えに行った時、新しい園長から呼び止められた。
「深沢さん、ですよね。ちょっとお話、宜しいでしょうか」
前の園長は、とても穏やかで見るからに優しそうな人だった。子どもたちからは良く慕われていた。一方で、頼りなくもあり、よく強引な保護者から詰め寄られていたりもした。保育士さんたちも、そのフォローをする者、「まったく頼りない」と言外に言いながらため息をつく者、それぞれだった。
新しい園長の印象は、前の園長とは正反対と言ってもよかった。40代半ばほど、ちょっときつめな印象で、はきはき喋り、断定的な言葉遣いも多かった。気の弱い保護者は見るからに距離を取るほどだった。
そんな園長に呼び止められ、一言二言で終わるような雰囲気ではなかったため、朋奈は子どもたちに「園長先生とお話しするからもうちょっと遊んでて」と外の遊具に促した。保護者を待つ子どもたちがたくさんいて、保育士も何人かいたのでふたりとも喜んで走っていく。
朋奈は園長に呼ばれたことの理由が全く想像ができずにいた。子どもたちの様子がおかしかったとか、誰かとケンカしたとか…少し嫌なイメージが頭をよぎる。
「うちの子たちになにかありました?」
「いえ、少し気になっていたんです。娘さんの呼び方なんですが、なぜ音ちゃんと呼ぶのでしょう」
「あだ名ですよ。親が子供を愛称で呼ぶのはおかしいことじゃないでしょう」
「それだけでしょうか」
園長は笑顔が全くない、きつい目をこちらに向ける。朋奈はどきりとした。
「何が言いたいんでしょう」
「自己紹介をしなきゃいけなかったり、友達があだ名を付けたりするでしょう。混乱していませんか」
「そんな様子はありません」
「……本当に愛称ですか? 旦那さん方の連れ子ですよね? 私は今の状況は精神的虐待を疑うような事態にもなりえると思ってます」
「何を言うんですか! 失礼じゃないですか!」
思わず朋奈はかっとなって声を荒げた。近くにいる保護者や保育士が驚いてこちらを見ている。もちろん、そのことを園は把握しているだろう。だけど、それを本人に突きつけるのはやってはいけないことではないのか。園としても、大人としても。その上「虐待」なんて言葉を投げつけられるとは思いもしなかった。確かに、朋奈は一度音に手を上げている。しかし、それを深く反省したあとは二度としないと誓っている。
「……失礼しました。ただ、それはお子さんのためでしょうか。考えてみてください。今後、成長するにつれて、あの子にその名前を呼び続けるのかどうか。保育士でも、保護者の中でも疑問に思ってる人がいらっしゃいます」
「これは家庭の問題です。そこまで口を出されるいわれはありません。失礼します」
あまりに腹が立って、朋奈は話を切り上げる。園長から背を向けて、ふたりを呼ぶ。遊具で遊んでいたふたりは、朋奈の声に気づいて駆け寄ってくる。手を洗うように促して、手をつないで敷地を出る。その前に、園長がどんな顔をしているかちらりと見る。言い過ぎた、と困った顔をしていることを期待していた。しかし、園長はさっきより鋭い視線を朋奈に向けていた。居た堪れなくなり、急いで園を出る。
なんてことを言うのだ。朋奈は怒りに震えていた。涙が出そうだった。自分の子どもではない子と親子になるのがどれほど大変なことか、あの人は知らないのだ。私がつけた名前ではない、夫と元奥さんが付けた名前を呼び続けることは、朋奈には苦痛だった。だからあだ名で呼ぶようにした。そのほうが、余計なことを考えずに愛せると思ったから。それのなにがダメなのだろう。一年以上、時間をかけて築いてきた母子の関係を、なぜ突然来た、何も知らない人に指摘されないといけないのだろう。
つないでいた手が引っ張られるように感じて、朋奈は足を止めた。怒りと悔しさで早足になっていて、ふたりが必死に走るようについてきていたのに気づく。
「ああ、速かったね、ごめんね」
そう言うと、ふたりは心配そうな表情を向ける。
「ママ、園長先生にいじめられたの?」
「大丈夫?」
「大丈夫、ありがとう。ゆっくり帰ろうね」
朋奈を心配するこの子たちは、天使のような子たちだ。虐待なんてありえない。この子たちの親は、自分だけなのだ。他人には何も言わせない。
帰宅して、それでもしばらく怒りが収まらない朋奈は、帰宅した史也に今日のことをすべて話した。話しているうちに悔しさがこみ上げ、涙を流しながら。こんな風に泣きながら史也に話すのはいつぶりだろう。
史也はいつものように頷きながらじっくりと聞いてくれた。良かった、「園長先生はひどいね」と言ってくれればそれでいい。それで朋奈の気が済むのだ。そう思っていた。
「朋奈、そのことなんだけど、やっぱり呼び方か変えないか。俺もずっと気になっていたが、ずっと言えなかった」
全く想像とは違うことを言われて、朋奈は一瞬混乱した。この人は、朋奈の話を聞いていたのだろうか。実子でないことを指摘し、虐待とまで言った園長に同意するのだろうか。
「なにを……言ってるの。私と音が上手く行ってるのは知ってるでしょう」
「それはわかってる。わかってるけど、あの子の名前は……」
「愛する奥さんと付けた名前だから? あの子は二人の愛の結晶だものね! 私が付ける名前より、大切でしょうね!」
「そうじゃない!」
否定する史也の声は、もう朋奈には届かなかった。涙が止まらず、向かい合って座っていた椅子から立ち上がり、寝室に入る。史也と向き合っているのは無理だった。以前のように、謝ってほしいわけじゃない。あれは史也の本音だ。朋奈が、もっとも恐れていたことだ。あの子は、元奥さんが残した宝物なのだろう。付けた名前は、二人の愛の証でもあるのだろう。だからこそ朋奈はそんな名前を呼べなかった。最初は否定していた史也も、最近は言わなくなっていた。だから、朋奈と音の関係性を見て、分かってくれていると思っていたのに。
しばらくして、史也が寝室に入ってきた。いつもなら「ごめん」と謝られ、朋奈もそれに応えて謝っていたのだが、史也は無言で背を向けていた。朋奈も、謝罪の言葉を聞きたくなかったし、謝る気はなかった。それがさらに、史也の引けない本音だということを感じさせた。
裏切られた――。
朋奈はそう思わずにはいられなかった。
*
史也は悩んでいた。やっと朋奈との関係が上手く行っていると思ったのに、やらかしてしまった。もっと他に伝え方があっただろう、という気持ちと、保育園側に指摘されたショックが大きかった。このままでは良くない。史也自身もずっと心のどこかで思っていたことだったが、朋奈の不安定さが恐ろしく、その話題を避けていた。しかし、虐待とまで言われてしまってはそうも言っていられない。このことは、里穂にも以前相談しており、里穂もいずれ問題になるのでは、と懸念していたことだった。
その日から、朋奈はまた不安定になることが増えていた。なにかと、「元奥さんなら良かったのに」とか「あの子は私の子ではないから」と口にすることが増えた。さすがに子どもの前では言ってないだろうと思ったが、念のためくぎを刺したら泣きだしてしまう。「そんなこと、私がすると思ってるなんてひどい」「信じてもらえていなかった」と。
史也はどうしていいかわからなくなり、また里穂を頼っていた。しかし、彼女も上手い解決策を見いだせないでいた。彼女はカウンセラーでも子育ての専門家でもない、当然だった。それでも史也は、そのストレスを吐き出せる場所を提供してくれている里穂に甘えていた。月に二回ほどのペースで里穂を誘い、いつもの居酒屋で話を聞いてもらっていた。朋奈にはいつものように、仕事の会食だと嘘をついた。
里穂をたまたま助けてから数か月がたっていたが、里穂は一切迷惑がらず、寧ろ積極的にこちらを気にしてくれていた。会わない時も連絡を取り合い、常に子どもや朋奈、そして史也の心配をしていた。史也もすっかりその里穂の好意に甘えてしまっていた。 最初の頃は朋奈に嘘をついて別の女性に会いに行ってることを後ろめたく思うこともあった。もしばれたらまずいと思っていた。しかし、実際に後ろめたい関係ではないというのもあり、その意識は徐々に薄れていった。里穂との間には恋愛感情もなければ当然だが肉体的な関係も一切なかった。どちらかというと、里穂の恋愛などの関係で邪魔になるならすぐに言ってほしいとしつこいくらいに伝えていた。伝える度に里穂は「そんな相手はいないので心配ないです」と苦笑していた。
里穂が実際、このことをどう思っていたかはわからない。たまたまだが、彼女を助けたことに対する見返りは十分すぎるほど貰っていた。これ以上里穂の時間を使ってすることではないだろう。そういう意識が史也の中に芽生え始めていたが、また朋奈が不安定になったことで、史也自身が里穂に救われていて、もう大丈夫だとなかなか切り出せなくなっていた。
そんな中、また娘の寝顔で、大きく腫れた状態を見た。これを見た瞬間、史也は溜まっていた感情が爆発した。娘の呼び名の問題からぎくしゃくしていたが、そんなことはもう関係なかった。朋奈を呼び、問いただした。朋奈は青ざめた顔をしていた。
「子ども同士のケンカよ、諒が叩いたの」
「諒の手にしては大きくないか、本当に諒がやったのか」
「……私がやったっていいたいの?」
「違うのか」
「違うわ。信じてくれないならそれでもいい。あなたは端から私を信じていないでしょう、何を言っても無駄よ」
「……わかった、明日本人に聞いてみてもいいか」
そういうと、朋奈は泣き出した。「何で信じてくれないの」「私が母親失格だと思ってるんでしょう」と。史也は頭を抱えた。
「朋奈、責めてるんじゃない。隠さないでほしい。この子は朋奈の実の子どもじゃない。そんななか、よくやってくれてると思ってる。でも暴力は良くない。嘘はつかないで、一緒に解決していこう」
史也は、どうか伝わってほしいと願いながら、泣いている朋奈の背中をさすった。朋奈は一層嗚咽がひどくなり、そのまま眠ってしまった。
もう、穏やかに解決するには限界まで来ている。子どもたちのためにも、このままではだめだろう。そう思った。
*
朋奈は、目にしたものが信じられずにいた。
ずっと不安定だった朋奈が、史也が向き合ってくれることで安定していった。そんな中で、音の呼び名の問題が起こり、ここ一ヶ月ほどはぎくしゃくしたままだった。それが朋奈を不安にさせ、また史也に対して感情を爆発させることが増えていた。良くないことだと、また悪循環に陥ることはわかっていたのに、止められなかった。そんな中、またしても音に手を上げてしまった。音が、史也と元奥さんの子どもであることが頭をちらついて離れなくなった。元奥さんを、今も愛しているのだろう。朋奈よりも、ずっと。そうとしか思えなくなっていた。あまりわがままを言わない音が癇癪を起こしたとき、つい手を上げてしまった。音が呆然とした目でこちらを見る。そして大きな声で泣き出した。諒もそれを見ていて、つられて泣き出してしまう。音は「ママ、ごめんなさい」と怯えもせずに朋奈の身体に縋ってくる。その姿にまで、今の朋奈はイライラしてしまう。腕を振りほどき、朋奈は部屋を出た。一度一人で落ち着かないと、もっと酷いことになりそうだった。
そのあと、例のごとく酷い自己嫌悪に襲われ、関係が良くない史也に対しても当たってしまう。どうしようもない状態に戻ってしまった。いや、一時期よりさらにひどくなっている気がする。世の中全てが敵に思えた。
そしてその夜、音の顔を見て史也に殴ったのかと問いただされた。もうだめだ、と朋奈は思った。愛想をつかされる。史也と奥さんの、大切な子どもに手を上げていたのがばれてしまった。そんな女は、嫌われて当然だ。そう思っていたのに、史也は「責めてるんじゃない」と語り掛けて来た。涙が止まらなくなった。この人はいったいどこまで愛情が深いのか。こんな人間に、手を差し伸べ続けられるのか。自分はいったい、何をしているのか。急に自分がしてきたこと全てが恥ずかしくなった。それでも、この人の愛情にちゃんと応えよう、子どもたちのためにも、ちゃんとしよう。そう決意した。
ーーそう、決意したのに。
それを見たのはたまたまだった。史也が帰宅し、お風呂へ入ったとき、いつもは脱衣所までもっていくスマホを忘れていた。稀に仕事のトラブルで夜中に呼び出されることもあったので、出来る限り着信が聞こえる場所に置いておくのが史也の癖だった。でも、鳴ってもいないものをお風呂場にわざわざ届けることもないか、とそのままにしておこうと思った瞬間、メッセージが届いた。朋奈は、今までそんな事を思いもしなかったのに、なぜかそとのきは「内容が見たい」と思ってしまった。まだお風呂から上がってくるには時間がかかる。そっとスマホを手にした。メッセージはポップアップで出ないようになっており、誰からのものかもわからなかった。夫のパスワードはなんとなく予想がついた。おそらく結婚記念日だろう。「こうすれば忘れない」と、結婚当時笑って話していたのを思い出す。
「それじゃ私が見れちゃうよ?」
「見られて困るものは入ってないから」
そう言われたが、一度も見たことはなかった。
結婚記念日の数字を入れる。予想通りロックは解除された。
先ほど着信したメッセージを開く。
そこには、信じられない言葉があった。
『今日はごちそうさまでした。朱音ちゃんが心配です。なにもなければいいのですが。またなにかあったら連絡ください』
メッセージの差出人は「秋月里穂」、と女性の名前があった。知らない名前だった。
史也が優しくなったのは、不倫していたからだったのか。朋奈は絶望で目の前が真っ暗になった。また、不倫。元夫に不倫されたときのことが蘇る。
ーー私は、不倫される運命なのか。
第9話
