「幻日」 第3話
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いつの間にか、深沢 史也は帰宅することが億劫になっていた。そんな感情が良くないことはわかっていながら、その気持ちを止めることができなかった。朋奈と結婚したのは一年と少し前。前の妻は子どもが二歳になるときに病気で亡くなり、絶望の中必死に一人娘を育てた。日々限界を感じることが多くなっていく中、朋奈と出会った。彼女は元夫の不倫で傷ついていたが、優しく情が深い女性だった。彼女とならもう一度家庭を築ける。そう思っていたのに。
いつの頃からか、朋奈はひどく不安を示すようになった。不倫をしていないかと疑われる。正直、なぜ働いているだけなのにそう疑われなければならないのかと理不尽に思う気持ちもないわけではなかったが、朋奈の過去の離婚の経緯を考えるとその気持ちも理解はできた。トラウマのようなものなのだろう。ただ、最近は娘を指して「史也と元妻が愛し合って生まれた子」というニュアンスを突き付けてくるような言葉が多くなった。それは、史也にとっては恐怖でもあった。史也は、元妻とは嫌いになって別れたわけではない、心から愛していた。そこが決定的に朋奈と朋奈の元夫とは違うのだ。その理不尽な感情に、娘を巻き込むようなことはどうしても避けたい。しかし、史也にはそれをどうすることもできない。元妻への愛情を否定することもしたくなかった。お互いの過去のことは、再婚する時は関係ないと思っていたが、朋奈にとっては大きなことだったのかもしれない。
そして、朋奈を苦しめるもう一つの要因が、史也との間に子どもができないことだった。不妊治療をしているが、なかなか成果が出ない。生理が来るたびに朋奈はひどく不安定になり、泣いた。史也には、これに対してもどうすることもできなかった。
「あなたの奥さんはあなたとの子どもを産んだのに」
そう言われるたびに苦しかった。
朋奈が働くことに意欲的ではなかったことと、子どもが一人増えたことで、史也は仕事を頑張らねばと再婚を決意した時からそれまで以上に精力的に働いていた。年齢的にも上の立場になり、責任が重い仕事も増えていた。それでも昇進や給与に反映されるのだから辛くはなかった。それが家族のためだと信じていた。
しかし、朋奈は遅く帰ることに懐疑的で、出来る限り飲み会や外食は控えていた。幸いなことに営業ではないので、「飲み会も仕事のうち」ということは少なかった。残業は多いが、社内の飲み会にはできる限り参加せず家で食事をするようにしていた。上の世代にはそれを良く思わない社員がいるのは知っていたが、朋奈の精神が悪化するより良いと思っていた。仕事は実力でどうにかする、と、尚更仕事には力を入れていた。
当初は、そんな史也の気持ちを汲んでくれたのか、遅くなっても一緒に食事をすればそこまで責められることもなくなり、上手く行っていたと思う。不妊治療を始めた頃から、それでも朋奈に不満がたまっていることに気づくようになった。しかし、それ以上史也にはどうすることもできなかった。仕事をやめて、残業のない会社に転職するか、とふと考えることもあったが、年齢や条件を考えると現実的ではなかった。史也にはふたりの子どもをできる限り不自由なく育てたい。それには収入が必要だ。そう考えて、朋奈の不満には見て見ぬふりをしてきた。
時計が二十一時を回る。そろそろ区切りがいいので帰ろうと会社を出た。空腹を感じたが、いつもどおり家で食べよう……そう思った時、なぜか唐突に『家に帰りたくない』という気持ちに襲われてしまった。
ほんの少しだけ、一人でゆっくりできるところはないか、小一時間だけ。一時間残業が増えても、そういう日も実際あるのだからバレるはずはない。まして、不倫などするわけもないのだから、問題ない。そう言い聞かせながらふらりといつもと違う道へ進む。そのとき、奥の路地から女性の悲鳴が聞こえた。史也は何事かと急いで路地に入ると、暗い路地の奥で女性が男に腕を掴まれていた。女性が「離して!」と叫んで暴れると、男は激昂して殴りかかろうとする。史也は思わず「やめろ!」と大声を上げた。
男は史也の声にはっと振り返る。史也の存在を認めた男は一瞬止まり、女性の腕を離し逃げようとした。奥はどこかの店の裏口になっており、行き止まりだ。逃げるには史也のいる道をすり抜けなければいけない。勢いよく走ってくる男に、史也は咄嗟に足を出した。それが上手くはまり、走っていた足が引っかかり男は転倒する。史也はとにかく男が逃げないようにと、急いで馬乗りになる。騒ぎを聞きつけて集まってくる人の存在を感じて「誰か通報を!」と叫ぶと、周りの人が動くのを感じた。馬乗りになってる男が暴れ、振り落とされそうになるところを、周りにいた男性が駆け付け抑えてくれる。「離せ! やめろ!」と叫ぶ男の声が聞こえないふりをしてパトカーの到着を待つ。遠くからサイレンが聞こえて来たかと思えば、意外と早く警官が駆け付け、男を確保していった。
被害者の女性に警察は声を掛け、女性がなにやら説明をしているようで、その話の途中で史也を指した。警察がやってくると、話を聞きたいと言われる。断る理由もないので、言われるまま警察について行く。騒ぎを聞いて駆け付けた人たちにも事情を聴いてるようだった。史也はありのままあったことを話した。悲鳴を聞いて駆けつけると、嫌がる女性に加害しようとしている男が見えた。こちらに走ってきた男に咄嗟に足を出したのは、勝手に身体が動いただけで、正直あんなに上手く転んでくれるとは思わなかった。なんにせよ、逃げられなくてよかった。そんなことを素直に話した。思ったよりも時間がかからず、事情聴取は終わった。貴重な体験だと、他人事のように史也は思っていた。あの男はどうなるのだろう。
帰ろうとすると、先ほど襲われかけていた女性が声を掛けて来た。車内で話をしていたところを、いったん中断してきたようだった。無理を言ったのか、警官が困ったようにこちらを見ている。
「あの、ありがとうございました」
と、頭を下げられる。
「いえいえ、咄嗟のことで、たまたまです。怪我はなかったですか」
「はい、叫んだらすぐに来てくれたので……本当に、何とお礼を言っていいか……」
「気にしないでください。本当に、たまたま通りかかっただけですから。怪我がなくて良かった」
そう言っているうちに、そういえば朋奈に連絡をしていないと思い至る。もう十時を過ぎていた。急いで帰らなければ。
「では私はこれで」
そう言いかけると、女性は慌てたように引き留めてきた。
「あの、お礼をさせてください」
「いえ、本当に気にしないで、大丈夫ですから」
それより早く帰らなければ、そう思っていたら、急いでいるのを察したのか彼女は名刺を差し出してきた。
「それでは私の気がすみません。せめて名刺を頂けないでしょうか」
相手の立場になったらそうかもしれない、と史也は少し冷静になり、会社の名刺を渡した。
「でも、本当に気にしないでくださいね。では」
そう言って史也は急いで女性と別れ、スマホを見る。着信とメッセージがたくさん来ていた。電話はもう寝ていると困るので、急いでメッセージを入れる。
『連絡遅くなってすまない、トラブルがあって警察と話をしていた。すぐに帰る』
そう入れるとすぐに既読になり、メッセージが入る。
『嘘つき!』
それを見て、史也は憂鬱だった気持ちが蘇ってくる。帰りたくない、その思いを封印し、今度こそ帰路に着く。
家に帰ると、朋奈が泣いていた。心配より、またか、という気持ちが湧いてくるのを、史也は止められなかった。
「遅くなって申し訳ない。……ちょっとトラブルがあって」
「トラブルって何!? なんで連絡くれないの!? 私がどんな気持ちで子どもたちといると思ってるの!」
「……ごめん。 子どもたちのこと、任せっきりで申し訳ない」
「あなたはなにもわかってない!」
最近、朋奈はどんどん精神が不安定になっているように思う。帰宅時間が遅くなったり、連絡しても仕事中で返事が遅くなったときは、今日のように泣いているか、口を聞いてくれない。最初は史也も悪いと思い、仕事で返事ができない、遅くなるのも仕方がないと思いつつも謝罪し、できるだけ連絡を取れるように気を配っていた。けれど、最近は朋奈が望むことをきっちりした上で帰宅しても、明らかに不機嫌な時がある。そうなると、史也はもうどうしていいかわからなかった。史也にできることは、これ以上機嫌を損ねないように、ただただ謝るだけ。それでもおさまらないときは、そっとしておくことにしていた。それにも、朋奈は不満そうではあったが。
史也は、朋奈の気持ちがわからなくなっていた。離婚した前の夫が妊娠中から不倫をしていたことが発覚して離婚した。離婚についてもやけにあっさり承諾したと言う。「離婚は結婚より大変」というが、簡単に了承されるのも朋奈にとっては辛いことだっただろう。それは史也にも想像できる。そして史也が遅くなったり、連絡が取れなくなったりすると、そのトラウマが蘇る、というのも頭では理解している。だから、できるだけのことはしているつもりだった。もちろん、疑われるようなことは一切していない。これ以上、どうしたらいいのだろう。ここ最近頭をかすめる、いっそ仕事をやめて、定時に帰れるようなところに転職したらいいのだろうか。でも、子どもたちふたりを金で困らせるようなことはしたくない――そうして史也の思考は堂々巡りを繰り返し、疲れてしまうのだ。二人の間に子供ができないことが原因の一つなのもわかってはいたが、既に一度、史也自身も病院に行き、問題がないと結論が出ていた。
朋奈が泣いて部屋に入ってしまったので、史也はひとり夕食を取ろうと冷蔵庫を開ける。そんな風に不安定になっても、史也に怒りをぶつけても、朋奈は夕食の準備だけは欠かさなかった。食卓に準備されていない日も、ラップをかけて冷蔵庫にしまってある。それらを取り出して、電子レンジで温めて食べる。朋奈の作る食事は美味しかった。それはお世辞でも、ご機嫌取りでもなく、本音であった。史也が妻を亡くし、娘とふたりで生活してるときは、娘の食事の準備だけで精いっぱいだった。それもなかなかうまくできず、娘に申し訳ないと思うことも多かった。子どもたちに美味しい食事を作ってくれる、それだけでも感謝しなければならない。史也は、ふぅ、とひとつ大きく深呼吸する。朋奈への感謝を感じられるのなら、まだ大丈夫だ、そう言い聞かせる。
食事をしたものを片付け、風呂に入り、寝室へそっと入る。朋奈はまだ起きてるようだった。
「ごはん、ありがとう。美味かった」
朋奈の背中に向かって言うと、朋奈の背中がピクリと動く。そしてゆっくりと振り向いて、「ごめんなさい……」と小さくつぶやいた。朋奈は、激昂した後は大体落ち着くと謝罪の言葉を口にする。朋奈自身も、きっと自分の感情を持て余しているのだろう、それは見ていて感じることができた。
「俺も、連絡できなくて悪かった。今日、路地で襲われかけていた女性がいてね、たまたま立ち会って、警察を呼んだから、事情を聴かれていたんだ」
「……そうだったの……何も知らずに私……ごめんなさい」
泣きそうな声になり、語尾が震えるようにしぼんでいく。
もういいよ、というように史也はゆっくり頷く。
それから、隣で並んで寝ている子どもたちの顔を覗いた。最近遅くなることが多くて、夜はなかなか顔を合わせられていない。
寝息を立てているふたりの顔を見ていると、さっきまでどうしようもなかった気持ちが消えていくのを感じる。子どもの存在は、史也にとって言いようのないほど大きなものだった。
しかし、娘の顔を見ると、頬が赤く腫れていた。
「顔、どうしたんだ」
「あ……ケンカ、ケンカしたの、それで、諒が音ちゃんの顔を思いっきり殴っちゃって……ごめんなさい」
「……そうか、朋奈が悪いわけじゃない。子どもはケンカするものだ」
冷静を装い、口ではそう言ったが、ぞわりと冷たいものを感じた。胸騒ぎを抑えることができなかった。朋奈の反応と、赤く腫れた頬。子ども同士の喧嘩で、あんなに酷く腫れるものだろうか。しかしそれを口にすると、朋奈がまた不安定になるのは目に見えていた。いや、それが本当だろうと間違いだろうと、激昂するだろう。勘違いかもしれない。勘違いであってくれ。そう思い、眠りにつく努力をした。しかしなかなか睡魔は訪れてくれなかった。
翌日、仕事中に昨日の女性から仕事用のアドレスにメールが届いていた。そういえば名刺を交換していたな、と思い出す。史也は昨日の娘と朋奈のことで頭がいっぱいで、午前中の仕事もなかなか集中できずにいた。これじゃダメだと思いながら、切り替えようと思っていた矢先のメールだった。
『先日は本当にありがとうございました。勝手な申し出ですが、どうしてもお礼がしたいので、連絡ください。 秋月里穂』
いつもの史也なら、結構ですと丁寧な言葉を添えて送り、会わずに終わらすだろう。そのときその女性の誘いに乗ったのは、『誰かに話を聞いてほしい』という気持ちがあったからだ。特に、女性の話を聞きたかった。会社でそういう話をするのはまずい。かといって、今の生活では仕事以外の繋がりを持てるような場所はなかった。こんなことを朋奈が知ったら大変だろうとは思ったが、史也はどうしても子どもの腫れた頬を忘れることができなかった。連絡先をプライベートのスマホに登録し、メールを送ると『もし宜しければ今日はどうでしょう』と連絡が入った。史也は朋奈に、『今日は仕事で接待があるので夕食は大丈夫』とメッセージを送った。
史也は自ら指定した大衆居酒屋に、先に入っていた。できるだけ変な雰囲気のない、気軽な場所を選んだ。もう一人来ますと告げてテーブル席に案内してもらい、一息ついたときに秋月里穂が入ってきた。里穂は史也に会って早々、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。大げさではなく、命の恩人だと思ってます」
そんなつもりで来たわけではない史也は慌てて着席を促す。七割方客が入っている店で、入店早々深々と頭を下げる女性は妙に目立ってしまった。促されて里穂は椅子に座る。昨日の事件ではなかなかちゃんと顔を見ていなかったが、向かい合って座ると否応にも顔が良く見える。里穂はまだ若く、ちょっときついくらい目鼻立ちがはっきりした美人だった。仕事が出来そうというのが強く感じた印象だった。はきはきとした話し方や、自分の意見をしっかり相手に伝えるところも、そういう雰囲気を感じていた。聞くと営業をやっているそうで、やはり、と史也は納得した。
「あのとき、深沢さんが来てくれなかったらと思うと、ぞっとします。あの人多分、余罪もあるみたいで」
警察は明言こそしなかったが、最近同じような事件が何件かあったという。未遂もあれば、被害に遭った女性もいた。その一連の犯人ではないかと警察は考えているようだった、と里穂は言う。
「連続婦女暴行事件の犯人ってことか……」
「本当に、最低ですよね」
里穂も相手に全く心当たりがないというので、手当たり次第に襲ってるということだろうか。ニュースでたまに聞くような話が、あまりに身近に起こったことで、史也は背中がひやりとするのを感じた。朋奈にも、気を付けるように話をしよう。
「秋月さんは、大丈夫なんですか。怪我はないと言ってましたが、体より精神的なもののほうが……」
「確かに、もうあの通りは通れないでしょうね」
里穂はさらっと言うが、それはそうだろう。歩いていたらいきなり掴まれて、路地に連れ込まれ、見知らぬ男に襲われる。何の関係性も、何の落ち度もない、たまたまそこを通ったから、たまたま若い女性だったから、そんな理由で。どれほど恐ろしかったか、あまりの理不尽さに、史也は腹が立ってきた。
「でも、助けてくれたのが深沢さんのような人で良かった。お陰で男性全般を嫌いにならないで済みそうです」
そう言って里穂は口角を上げる。自然と目も細くなり、目じりが垂れる。きつめな美人である彼女は、笑うと柔らかく、印象が変わる。
「深沢さんは、お疲れですか」
事件の話をし終えたあと、里穂はそう問うてきた。営業をやっているからなのか、目の前の人間の表情や言葉の裏を汲むのが得意のようだった。そんなに顔に出てるのかと史也は少し反省した。きっと里穂とはこれきりになるだろう、そう思ったら思い切って聞いてもらおうと思った。
「実は、再婚した妻が精神的に不安定で。女性の意見を聞きたかったんだ、今日この話に乗ったのも、それが理由でもあって。お礼は、話を聞いてくれる、ということじゃだめかな」
常識知らずなことを言ってる自覚はあった。不安げに里穂の反応を伺うと、里穂は驚いたような表情になってから、笑顔に変わる。
「もちろんです。今日はお礼でお誘いしたので、なんでも聞きますよ」
この人は、きっと営業の成績もいいのだろうな、と史也は思った。
「それは、もしかしたら深刻な状況かもしれないですね」
里穂は真剣な顔で史也の話を聞いた後、少しだけ言いづらそうに、だけどきっぱりとそう言った。史也は、やっぱりそうか、と覚悟していたが改めて言われると少なからずショックを受ける。
「奥様は、相当精神的に追い詰められていらっしゃるのでは? 不妊治療はかなり辛いと聞きますし、二人目不妊は一人目の人にも理解されず孤独になる場合があるとも聞きます」
「不妊治療か。そうかもしれない。しかしどうしたらいいか……」
「そうですね……お子様を欲しがってるのは奥様ですか?」
「そう、俺は別に……二人の子どもがいるから子どもは絶対にというわけじゃないんだけど」
「それ、奥様に伝わってませんか?」
里穂に言われて、史也はどきりとする。里穂が史也との子どもを欲しがっているのを知っている。だけど、史也としてはどうしてそこまで、と思う気持ちがなくはない。自然にできるのならもちろん歓迎だが、辛い治療をしてまで、とは、積極的には思えなかった。
「ひとりで頑張ってる気持ちになってるんじゃないでしょうか」
朋奈が史也の気持ちを見抜いている。そういう態度はとらないように気を付けてはいるが、伝わってしまうものかもしれない。
「私は独身ですし、子どももいないのであくまで想像の域を出ないのですが……」
そう前置きをして、里穂は史也を見る。とても真剣に考えてくれているのがよくわかる。
「自分の子どもを育てることもすごく大変だと思います、ましてや別れて憎むような相手の子だとしたら尚更。その上、自分と血のつながらない子どもを育てること、ふたりを分け隔てなく愛すること、おそらく他人が周りから見てることの何倍も色んな思いを抱えているのではないかと思います。まして女の子。史也さんの元奥様をそこに見てしまう可能性もありますよね」
娘を、亡くなった元妻に重ねてしまう……今まで史也はそういう目で娘を見たことがないが、今後成長するにつれて、彼女の面影を感じる日は来るのかもしれない。娘はどちらかというと史也に似ていたので、今まで考えたこともなかったが、あり得ないことではない。朋奈は史也の元妻を知らないから、どれほど面影があるかはわからないだろう。しかし、わからないがゆえに、思い込む可能性もある。それが今後、朋奈を一層苦しめることもあるのかもしれない。特に最近、朋奈は「音は史也と元奥さんが愛し合って生まれた子」という事実に強い執着を持っているように見える。
「母親が子どもを愛して育てるのは当たり前のこと、というのは幻想だと私は思っています。それが当たり前のようにできる人もいる、本能だという人もいる。でも自然界にだって子どもを見捨ててしまう親もいる。環境や状況、個体差によって変わっていくものだと私は思います」
里穂の言葉を聞いて、史也は自問する。どこかで少しでも、「母親なんだから」という気持ちはなかったか、朋奈が欲しがるから仕方なく、と思う気持ちと同様、心の奥にある無意識を言い当てられたような気がした。
里穂は続ける。
「娘さんの件は、とにかく気をつけて見てあげてください。深沢さんに対する態度は、いわゆるDVのそれに近いように聞こえます。感情をぶつけては、泣いて謝る。それ、お子様たちに向かってしまう場合もあるかと」
確かに、朋奈のそれは、よく言われる「DV男」の性質に近いものかもしれない。いきなり感情的になり、自分の言い分をただひたすら通そうとする。時には暴言も吐く。そしてその後、必ず反省して謝る。それが、演技だとは思えなかった。DVをする男は、翌日にはひどく優しく、暴力については泣いて謝ると聞く。史也に対しては暴力はないが、子どもたちにもないとは言い切れない。そう考えるとぞっとした。
「とにかく、奥様の気持ちに寄り添ってあげてくださいね。理屈や正論ではなく、ひとりじゃない、大切にされていると感じることが、奥様の安心につながるのではないかと思います。私も専門家ではないし、適切なアドバイスはできないかもしれませんが……」
「いきなりこんな重い話で申し訳ない、色々と刺さるものがあったよ、ありがとう」
「いいえ、それはいいんです。こんな話、一人で抱え込む方が危険です。お二人とも頼れるご実家もないんですよね? だったら、できるだけ早く心療内科等を受診したほうがいいと思うんですが……」
史也にも朋奈にも、頼れる実家がなかった。それは二人がお互いの連れ合いを失くしたあと、すぐに距離が縮まった理由の一つでもあった。だからこそお互い、支え合おうと思ったのだ。
「私も、知り合いを辿れば心療内科や、子どものケアに詳しい人にたどり着けると思います。ちょっと聞いてみますので、また連絡しますね」
こんな話を突然されても、戸惑うそぶりを見せずにテキパキと話を進める里穂に、史也は感心してしまう。朋奈とは正反対の女性だった。
「ありがとう。助かるよ」
「いいえ、命の恩人ですから」
大げさな、と史也は笑うが、里穂は大真面目な顔をしていた。
「深沢さん、お子さんには深沢さんがいます。大丈夫です、ちゃんと守りましょう」
里穂に言われて、どうしようと迷ってる場合じゃないな、と感じる。朋奈と、子どもたちを守らなければ。
第4話
