山本鼎『漁夫』
創作版画の一歩――山本鼎『漁夫』
「版画」と聞くと、皆さんはどんな作品を思い浮かべるでしょうか。 北斎や広重が活躍した、江戸の美しい浮世絵を思い浮かべる方も多いかもしれません。
実は、今から120年ほど前の日本で、版画の世界に大きな変化が起こりました。 その変化の先頭に立ち、新しい風を吹き込んだ人物の一人が、山本鼎(やまもと かなえ)です。
今回ご紹介する『漁夫』は、日本の近代美術史において「創作版画の第一号」と称される、とても重要な一枚です。
■「版画を自分で作る」ということ
当時の木版画は、絵師が下絵を描き、彫師が版木を彫り、摺師(すりし)が紙に摺るという、職人たちの「分業」によって作られるのが当たり前でした。
それぞれの職人が高度な技術を持ち、素晴らしい作品を生み出していた一方で、「画家自身が版木に直接向き合い、彫りや摺りまで一貫して行う」という考え方は、まだ一般的ではありませんでした。
しかし、かつて職人として木版の修行を積んでいた山本鼎は、そこに新しい表現の可能性を見いだします。
「自分で描き、自分で彫り、自分で摺る。」
版画を単なる複製の手段ではなく、画家自身の魂を打ち込む「一つの独立した絵画芸術」として成立させようとしたのです。この考え方が、後に日本アート界を揺るがす「創作版画運動」へと繋がっていきます。

■『漁夫』という一枚
『漁夫』が制作されたのは1904年(明治37年)。山本鼎がまだ20歳の頃の作品です。
画学生だった彼が仲間とともに旅した千葉県・銚子の海岸で、大漁半纏(はんてん)を羽織り、煙管(キセル)を手に海を見つめる力強い漁師の姿に感銘を受け、その時のスケッチをもとに版木へと刻み込みました。
画面を見ると、無駄な装飾を削ぎ落とした太く鋭い線が、働く男の存在感と浜辺の風をダイナミックに捉えています。
現在の目で見ると、一枚の木版画としてとても自然に見えるかもしれません。 けれども当時の日本では、自らの手で彫り進め、彫刻刀の痕(あと)そのものを芸術的な味わいとして魅せるという行為は、極めて斬新で情熱的な挑戦でした。
■一枚の版画から始まった大きな流れ
この『漁夫』は、与謝野鉄幹らが主宰する文芸雑誌『明星』に発表され、友人の石井柏亭から「刀画(とうが)」と絶賛されるなど、大きな注目を集めました。
その後、山本鼎は石井柏亭や森田恒友らとともに美術雑誌『方寸』を創刊。 そこには若い画家や詩人たちが集まり、木版画だけでなく絵画や文学など、新しい表現の熱気があふれ出していきます。
やがてその熱は、竹久夢二や『港屋』をハブとして、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄らによる『月映(つくはえ)』へ、そして大正モダニズムの都市表現へと受け継がれていきました。
写実的な風景だけでなく、人間の孤独や夢、心の世界までを木版で表現するようになった日本の創作版画。 『漁夫』は、そのすべての始まりとなる「記念すべき一歩目」なのです。

■修正作業
●色調を少し鮮やかにしました
●色見は 愛知県美術館 所蔵の物を参考にしています
●不要なゴミやシミ等を修正しました
●バックを白にした後に和紙の質感が有る画像を載せました
■『ブルトンヌ』へ続く道
古希画廊で先にご紹介した『ブルトンヌ』は1920年の作品です。 『漁夫』から『ブルトンヌ』まで、およそ16年。
その間に山本鼎はフランスへ渡り、ヨーロッパの本場のアートに触れ、創作版画だけでなく「児童自由画教育」や「農民美術運動」など、人々の暮らしにアートを取り入れる活動へと進んでいきます。
そう考えると、『漁夫』と『ブルトンヌ』を並べて見るのも面白いかもしれません。
一枚は、20歳の青年が情熱のままに木版に挑んだ「創作版画の原点」。 もう一枚は、渡欧を経て表現を深めていった先に生まれた「熟成の美」。
同じ作家が16年という時間の中でどのように変わっていったのか。 そんなドラマに思いを馳せながら眺めてみると、作品の奥にあるストーリーが浮かび上がってきます。
■A4印刷用データについて
以下の有料エリアをご購入いただくと、**A4印刷用の透かしのない高画質データ(JPG)**をダウンロードできます。
ご自宅でのプリントはもちろん、コンビニのマルチコピー機を利用して、気軽にお楽しみいただくこともできます。
お気に入りの額縁やVカットマットと組み合わせて、ぜひお部屋に飾ってみてください。
■印刷等について
山本鼎の『ブルトンヌ』記事中に印刷方法等の説明を書いておりますのでそりらをご覧ください。
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