痛みが、使命に変わりはじめた日【ハッピーライティングマラソン #50】
ハッピーライティングマラソン。今週のお題は、
今日をひとことで表すと、どんな1日でしたか?
今日をひとことで表すなら。
それは、
使命が、名前を持ちはじめた日
だったのかもしれません。
本田健さんは今回のお題を、
「気軽に書ける、軽めのお題です」
というように、やさしく届けてくださいました。
けれど、なぜか私にとっては、
この問いへのこたえを考えているうちに、
思いがけず、深い場所に触れることになりました。
もしかしたら、
このハッピーライティングマラソンの中で、
いちばん重みのある記事になるかもしれません。
もちろん、それに悪い意味はありません。
今の私に、
必要な氣づきだったのだと素直に思えるからです。
まるで、長いあいだ霧の中にあったものに、
ふっと名前が与えられたような。
そんな瞬間。
もし今、重たい話を読む心の余白がない方は、
どうかここで、そっとページを閉じてください。
ご自分の心を守ることを、
いちばん大切にしていただきたいからです。
ここまで読んでくださって、
ありがとうございます。
では、少しだけ話を進めます。
🌿心の奥で、ようやく見えたもの
少し前に、
私はあることに氣づきました。
この人生の中で、
私の骨の奥の奥にまで、
傷を残した人が、
三人いるということに。
それが誰なのかについては、
たぶん一生、詳しく語ることはないと思います。
私だけが知っていればいいことだからです。
その人たちの内側にあった複雑さを、
ここで細かく暴くために、
この記事を書きたいわけでもありません。
きっと、その人たちにも、
その人たちなりの傷や背景があったのでしょう。
そのことは、今なら少しだけわかります。
でも、だからといって、
私の心が受け取った痛みまで、
小さく扱わなくていい。
今日書きたいのは、
誰かを裁くための話ではなく、
私の中でようやく輪郭を持ちはじめた、
ひとつの理解についてです。
その三人に共通しているもの。
それは、
強いナルシシズムの傾向と、
ガスライティングの構造でした。
もちろん私はここで、
誰かを診断したいわけではありません。
ただ、長い時間をかけて、
何度も自分の記憶を疑い、
何度も自分の感じ方を責め、
何度も「私が悪かったのかもしれない」と思い続けた末に、
ようやく、
「あれは、そういう構造だったのだ」
と腑に落ちたのです。
以前の私なら、
ここで深く沈んでいたかもしれません。
「人生を台無しにされた」
「どうして、こんな目に遭わなければいけなかったの」
そんなふうに、うつの沼の底まで落ちていたかもしれません。
でも今の私は、
少し違う場所にいます。
悔しがっても、
怒っても、
泣き叫んでも、
すでに心に残ってしまった傷を、
なかったことにはできません。
コンピューターのように、
人生には undo がありません。
でも。
受け取ってしまった痛みに、
新しい意味を与えることはできる。
その痛みを、
誰かを傷つける刃にするのではなく、
誰かの心に灯る小さな明かりに変えていくことは、
できるかもしれない。
そう思い始めたのです。
🌿その苦しさには、名前があった
ここで、二つのことばに少し触れたいと思います。
ナルシシズム
そして、
ガスライティング
英語圏では、この二つのことばは、
メンタルヘルスの分野でも、
日常会話の中でも、
かなり語られるようになっています。
一方で、日本語の世界では、
まだ十分に語られているとは言えないのではないかと、
私は感じています。
もちろん、関連する日本語のことばや表現は、
少しずつ見かけるようになってきました。
この note の世界でも、
ある特定のことばが入った記事を、
よく目にするようになりました。
それだけ、
手がかりを探している人がいるのだと思います。
「何かがおかしい」
「でも、うまく説明できない」
「自分が悪いのかもしれない」
「相手は愛してくれているはずなのに、なぜこんなに苦しいのだろう」
そんなふうに、
心の中で長いあいだ答えを探してきた人が、
きっとたくさんいるのではないでしょうか。
ガスライティングは、
とても見えにくい形で起こります。
たとえば、
母と娘のあいだで。
夫婦や恋人のあいだで。
職場の上司と部下のあいだで。
愛情、責任、教育、指導、心配。
そんな一見きれいな名前をまといながら、
相手の感覚を少しずつ曇らせ、
自分の感じ方を信じられなくさせていく。
だからこそ、
その渦中にいる本人ほど、
氣づきにくいのだと思います。
「私が弱いだけなのかもしれない」
「私が大げさなのかもしれない」
「私がもっとがまんすればいいのかもしれない」
そうやって、
自分の心の声を、
自分で小さくしてしまう。
でも、もし。
ガスライティングのような関係の中で感じる苦しさが、
単なる性格の問題でも、
意志の弱さでもなく、
心の奥に残された傷や、
囚われた感情
とも関係しているのだとしたら。
そして、その関係の中で、
自分の感覚を何度も疑わされてきた心に、
新たな囚われた感情が残されてしまうこともあるのだとしたら。
その感情を少しずつほどいていくことで、
本来の自分の感覚を取り戻せる可能性があるとしたら。
そこに、
エモーションコードがつながってくるのです。
🌿使命の種が見えた日
いま私は、
このことをどのようにお伝えしていけばいいのか、
慎重に考えています。
あまりにも深いテーマだからです。
軽く扱ってはいけない。
簡単に断定してはいけない。
誰かの痛みを、都合のよい物語にしてはいけない。
だからこそ、
丁寧に、
誠実に、
少しずつことばにしていきたいと思っています。
ガスライティングで傷ついた感覚。
ナルシシズムの強い人間関係の中で、
少しずつ信じられなくなってしまった自分の声。
そして、そこに残された囚われた感情。
そのあいだに、
どんなつながりがあるのか。
エモーションコードは、
そこにどんな可能性を見出せるのか。
私はこれから、
自分自身の体験と、
臨床の現場で人の心に向き合ってきた時間と、
エモーションコードの学びを重ねながら、
少しずつ探っていきたいと思っています。
今日をひとことで表すなら。
それは、
私の使命が、ようやく私に追いついてきた日。
そして不思議なことに、
この氣づきは、前回のお題で書いたこととも、
自然につながっていました。
もしかしたら、
私は自分の使命についての答えを、
受け取ることになるのかもしれない。
そんなことを書いていました。
あのときは、まだ何のことかわかっていませんでした。
けれど今日、
その答えの輪郭が、
ほんの少しだけ見えたような氣がしたのです。
そして、もうひとつ。
前回の記事で書いた、
夢は、ひとり分で終わらない。
ということばも、
今日、また別の形で私のところに戻ってきました。
私が経験してきた痛みは、
私ひとりの中で終わらせるためのものではなかったのかもしれません。
誰かの心が、
「私が悪かったわけじゃなかった」
と、もう一度自分の感覚を取り戻すために。
誰かが、
愛のふりをした支配から、
そっと自分を取り戻すために。
まだ、はっきりした形にはなっていません。
でも、
今日、たしかに種が見えました。
ここで、ふと思い出します。
そういえばこれは、
ハッピーライティングマラソンでした。
今回の記事は、たしかに少し重たくなりました。
でも、痛みに名前がつき、
その先に使命の種が見えたのなら。
それはきっと、
私にとっての「ハッピー」の形なのだと思います。
必要な方に、必要なタイミングで届きますように。
最後までお読みくださり、
ありがとうございました。
