ルナの誕生日 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
松山真紀子は、夫の康太と二匹の猫「ルナ」と「レオ」を連れて、住み慣れた東京を離れ福島県の山間部に移住して三年が経った。今日はルナの十三歳の誕生日だ。
冷蔵庫から取り出した小さな肉片を前に、真紀子は少し迷いながらも、特別だからと包丁を手に取った。
「ねえ、これって大丈夫なの?」
食卓から覗き込む康太の顔には不安が浮かんでいる。
「もう少ししたら完全に違法になるのよ」真紀子はわずかに肩をすくめた。「でも今日は特別な日だし、見逃してもらえるわよ」
彼女は肉を細かく刻み、古びた土鍋に水と一緒に入れて火にかけた。やがて部屋に肉の香りが広がり、ルナとレオはキッチンの入り口に座り込んで、じっと鍋を見つめている。
「彼女たち、もう匂いで分かってるわね」
「だろうな」康太はペットモニターで猫たちのバイタルをチェックしていた。「ルナの心拍数上がってる。興奮してるみたいだ」
真紀子はスープを少し冷まし、小さな器二つに分けた。一方には多め、もう一方には少なめに。
「レオには少なめね。まだ若いから」
真紀子が器を床に置くと、二匹の猫は瞬時に飛びついた。ルナが先に舌を出し、おそるおそる肉汁を舐める。すると途端に目を見開き、がつがつと食べ始めた。レオも負けじと舐めているが、明らかにルナの方が夢中だ。
「久しぶりの本物の肉だもの。喜ぶわよね」
真紀子はスマートフォンを取り出し、猫たちの様子を撮影した。アプリを起動して「#ラストミート」とハッシュタグをつけ、「13歳の誕生日。最後の肉汁。来月から完全禁止だから」というコメントを添えてアップロードした。
画面には即座に警告メッセージが表示された。
『このコンテンツは倫理基準に違反する可能性があります。本物の肉類の摂取を奨励する投稿は環境保護法に抵触する恐れがあります。』
「また始まった」彼女はため息をついて警告を閉じ、投稿を続行した。
康太はタブレットを覗き込んでいる。「肉類を与えたら通報されるかもしれないよ。隣の大崎さん、過激な菜食主義者だろ」
「大丈夫よ。あの人も昔は猫を飼ってたの。理解してくれるはず」真紀子は自信なさげに言った。
ルナはもう器をきれいに舐め終えていた。レオはまだ少し残している。ルナはレオの器を狙っているようだ。
「ダメよ、ルナ」真紀子は優しく制した。「あなたのはもう終わり」
そう言いながら、少し濁った昔の記憶が蘇る。十年前、まだ肉が普通に食べられていた頃。毎週のように焼肉店に通い、松阪牛を堪能していた日々。でも徐々に肉の価格は高騰し、あのカーボンタックス法案が可決されてからは、一般家庭で肉を食べることはほぼ不可能になった。
「まあ、植物性の代替肉も悪くないけどね」康太が言った。「俺たちは慣れたよ」
真紀子は沈黙していた。彼女の頭の中では、猫たちの体調の変化が気がかりだった。去年から二匹とも植物性タンパク質とタウリン・アルギニン添加物が中心の「サステナブルキャットフード」に切り替えてからというもの、特にルナの毛並みが悪くなり、元気もなくなった気がする。
獣医に相談しても「適応期間です」と言われるだけ。それでも真紀子は、ペットに必要な栄養素を提供できていないのではないかという不安が消えなかった。
「来月からはこの小さな喜びも禁止なのね」真紀子はつぶやいた。「ペットカーボンフットプリント法が施行されたら、猫にも肉は一切与えられなくなる」
「仕方ないよ。世界は変わったんだ」康太はルナの頭を撫でながら言った。「科学的に調整されたフードで必要な栄養は摂れるって」
ルナは満足そうに目を細め、康太の手に頭をすりよせた。しかし真紀子には、猫の目に何か哀しそうな影が見えるような気がした。
「でもね、彼女たちは本当に必要な栄養素を得られてるのかしら」真紀子は小声で言った。「タウリンは合成されたものと天然のもので違いがあるって昔読んだことがあるわ」
「科学的根拠のないデマだよ」康太はスマホを見せながら言った。「ほら、環境省のページにも書いてある。合成タウリンは天然由来と分子構造が同一で、効果に差はないって」
真紀子は首を振った。「でも彼女たちの体調が良くないのは事実でしょ?データよりも目の前の現実を見てよ」
康太は何か言いかけたが、急にドアベルが鳴った。
真紀子は慌てて肉汁の入った鍋を流し台の下に隠し、康太はタオルで床を拭いた。彼らは顔を見合わせて緊張した表情を交わす。
ドアベルがもう一度鳴った。
「松山さーん、環境調査です。定期検査の時間ですよー」
真紀子はため息をつき、立ち上がった。「行くわよ、おとなしくしてて」と猫たちに言い、ドアに向かった。
ドアを開けると、制服を着た若い女性が笑顔で立っていた。「こんにちは、月例の生活環境調査です。少しお時間いただけますか?」
「ええ、どうぞ」
調査員は部屋に入ると、機械を取り出してキッチンに向かった。「いつも通り、食品と廃棄物のカーボンスコアをチェックさせていただきます」
機械をかざすと、モニターに数値が表示される。調査員は突然眉をひそめた。
「あの、松山さん。キッチンで肉類を調理されましたか?」
真紀子は一瞬固まった。「いいえ、何もしていません」
調査員は疑わしそうな目で真紀子を見つめた。「でも、空気中の動物性タンパク質粒子が検出されています。規制前とはいえ、申告義務がありますよ」
そのとき、ルナがキッチンから現れ、調査員の足元に擦り寄った。調査員は少し表情を和らげ、しゃがんでルナを撫でた。
「あら、かわいい猫ちゃん。何歳ですか?」
「今日で十三歳です」真紀子は言った。「誕生日なんです」
調査員はルナの様子をしばらく観察してから、立ち上がった。彼女はしばし考えるような素振りを見せた後、機械の電源を切り、カバンにしまった。
「お誕生日おめでとうございます」調査員は小さな声で言った。「私も猫を飼っていたことがあります。シニア猫は特別ですよね」
彼女は記録用のタブレットを取り出し、何かを入力した。「今回の調査では特に問題ありませんでした。来月からは新しい規制が始まりますので、そちらもご協力お願いします」
そして、調査員は真紀子に向かって小さくウインクした。「猫ちゃんのお誕生日、素敵な日になりますように」
調査員が去った後、真紀子と康太は顔を見合わせて安堵のため息をついた。
「見逃してくれたのね」
「そうみたいだな」康太は肩の力を抜いた。「でも来月からは本当に気をつけないと」
真紀子はルナを抱き上げた。年老いた猫の体は以前より軽くなっていた。「ごめんね、これが最後の本物の肉汁だったわ」と彼女はつぶやいた。「でもあなたにとって最高の物を与えたかったの」
ルナは真紀子の胸に頭をすりよせ、小さく鳴いた。その音は、かすかな感謝の言葉のように聞こえた。
窓の外では、光合成効率を高めるために遺伝子組み換えされた新種の杉の木々が、夕陽を浴びて輝いている。世界は変わり続けていた。真紀子は窓辺に近づき、杉の木々の向こうに見える山々を眺めた。昔はそこで牛が放牧されていたが、今はソーラーパネルが並ぶ風景だ。
真紀子はルナを抱きしめながら、これからの未来を思った。私たちが大切なものを守るために、何か他の大切なものを失っているのではないか—そんな問いが彼女の中で静かに揺れていた。
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