算数の時間 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「パパのお仕事で地球は救われるの?」
朝食のテーブルで、7歳の咲良がトーストをかじりながら聞いてきた。彼女の質問はいつも突然で、そして核心を突く。
「そうだな...パパは頑張ってるよ」田中は曖昧に答えた。気候変動政策を研究して15年、最近はDAC(ダイレクト・エア・キャプチャー)技術の社会実装について論文を書いている。だが娘の前では、いつも歯切れが悪くなる。
「今度、咲良のクラスで環境のお話をしてもらえませんか?」妻の美香が言った。「担任の先生からお願いがあったそうです」
田中は内心うろたえた。研究室では数字に向き合えるが、子どもたちに何を話せばいいのか。
翌週の金曜日、咲良の通う和光小学校3年2組。田中は教室の後ろに立っていた。担任の佐藤先生は30代前半、環境問題にも関心が高いと聞いていた。
「今日は咲良ちゃんのお父さんが来てくれました。地球の温暖化について、お話を聞きましょう」
子どもたちの目が一斉に田中に向けられる。清らかな瞳。希望に満ちた表情。
「えーっと...」田中は喉の奥が渇くのを感じた。「みんな、空気中にある悪いガスを吸い取る機械があるって知ってる?」
「知ってる!」手が上がる。「テレビで見た!大きな扇風機みたいなやつ!」
「そう、それだよ。最新の技術で、毎年たくさんの二酸化炭素を吸い取ってるんだ」
子どもたちの目が輝く。田中は続けた。
「アイスランドにある世界最大の工場では、年間で36,000トンも吸い取ってるんだよ」
「うわー、すごい!」
しかし教室の隅で、佐藤先生が微妙な表情をしていることに田中は気づいた。
「あの...田中さん」佐藤先生が口を開いた。「せっかくなので、みんなで算数をしてみませんか?」
田中の胸に嫌な予感が走った。
「1年間に世界中で出る二酸化炭素は、約400億トンです。みんな、割り算できるかな?」
佐藤先生が黒板に数字を書いていく。
400億 ÷ 36,000 = ?
「えーっと...」子どもたちが指を使って計算し始める。電卓を持っている子もいる。
「110万!」一人の男の子が叫んだ。
「正解!」佐藤先生が言った。「つまり、あの大きな工場が110万個あって、初めて1年分の二酸化炭素を吸い取れることになります」
教室が静まり返った。
「110万個...」咲良がつぶやいた。「それって...作れるの?」
田中は言葉を失った。理論上の可能性と現実の間には、こんなにも大きな溝があった。
「でも、先生」別の女の子が手を上げた。「110万個作るには、お金はいくらかかるの?」
佐藤先生は田中の方を見た。答えを求めるような目だった。
田中は震え声で答えた。「1つの工場が...大体1000億円ぐらいかな」
子どもたちが再び電卓を叩く音が響く。
「110京円!」
その数字を聞いた瞬間、田中の頭の中で何かが崩れ落ちた。世界のGDPでも足りない金額。そして電力は?作るのにかかる時間は?
「パパ...」咲良が小さな声で言った。「この機械だけじゃ、地球は救えないの?」
田中は娘を見つめた。失望させたくなかった。でも嘘をつくことはもっとできなかった。
「咲良...パパのお仕事はね、地球を救う方法を見つけることなんだ。この機械も大切な1つの方法。でも、それだけじゃダメなんだ」
「じゃあ、どうするの?」
「みんなで一緒に考えるの。省エネとか、車を電気にするとか、森を植えるとか...たくさんの方法を組み合わせて」
教室の空気が少し和らいだ。
「そっか」咲良が微笑んだ。「パパ一人じゃ大変だもんね。みんなで頑張るんだ」
田中は胸の奥が熱くなった。
授業が終わって、佐藤先生が近づいてきた。
「すみません、意地悪な質問をして」
「いえ...ありがとうございました。子どもたちに現実を知ってもらうことも大切ですから」
「でも、希望も与えたいんです」佐藤先生は言った。「田中さんのようなお父さんがいるから、子どもたちも頑張れる」
帰り道、咲良が田中の手を握りながら言った。
「パパ、算数って大切なんだね」
「どうして?」
「本当のことがわかるから」
田中は娘の手を握り返した。現実は厳しい。だからこそ、正確に向き合わなければならない。
その夜、田中は書斎で新しい論文の構想を練り始めた。タイトルは「DAC技術の現実的評価と多面的気候対策の必要性について」。
子どもたちの算数が教えてくれたことを、大人の世界にも伝えなければならない。数字は嘘をつかない。だからこそ、数字と向き合い続けることが、本当の希望への第一歩になるのだろう。
窓の外では、春の夜風が桜の花びらを舞い散らせていた。
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