見出し画像

雨の記憶 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

雨が降らなくなって、もう三年が過ぎようとしていた。

久美子は窓辺に立ち、指先でガラスに付いた埃を拭き取りながら、見慣れた景色を眺めていた。以前は緑豊かだった公園も、今は茶色く変色し、子どもたちの姿もない。乾いた風が通りを吹き抜けるたび、細かい砂埃が舞い上がる。

彼女は時計を見た。もうすぐ郵便配達の時間。今日は水配給券が届くはずだ。「市民水枠制度」が施行されて以来、一人あたり月額5リットルが最高配給量だった。四人家族の彼らには、月に20リットル。かつてはシャワー一回分だった量が、今は一か月の命綱だ。

郵便受けから取り出した封筒を開け、久美子はため息をついた。今月は配給量が減っていた。「水源の減少により…」と政府からの公式な言い訳が書かれている。不足分は市場で購入するしかない。水価格は毎週上昇し続け、パート勤めの久美子の家計を圧迫していた。

リビングのタブレットで水市場の価格を確認すると、また値上がりしていた。一リットル800円。先月は650円だった。

玄関のドアが開く音がした。

「ただいま!」

息子の良太が帰ってきた。いつもより元気な様子で、顔は汗ばんでいるが、目は輝いていた。十一歳の彼は、最近急に背が伸びて、シャツの袖が短くなっていた。新しい服を買ってあげたいが、予算が…。

良太はランドセルを床に放り出すと、冷蔵庫へ直行。配給水の入ったボトルに手を伸ばした。

「良太、それは週末までもたせなきゃいけないの」

久美子は優しく諭した。喉が渇いているのはわかるけれど、まだ水曜日だ。週末の家族の食事用に残しておかないと。

良太は一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに小さく笑った。彼はボトルを冷蔵庫に戻し、代わりにポケットから数枚のカードを取り出した。

「お母さん、これ」

久美子は目を疑った。それは高級水販売所「アクアゴールド」の商品券だった。青と金色の模様が入った特徴的なデザイン。一枚で5リットルの水が買える。家族の一か月分に相当する。そこに五枚ものカードがある。

「どうしたの、これ?」

久美子の声はわずかに震えていた。子どもがそんな高額商品券を持っているなんて、何か怪しいことに巻き込まれたのではないか。

「稼いだんだよ」

良太は胸を張り、得意げに言った。小さな顔に大人びた自信が浮かんでいる。

久美子は首を傾げた。小学五年生の息子が、どうやってそんな高額の商品券を手に入れたのか。

「塾の帰りに、『水っ子』になったんだ」

「水っ子?」

「うん、俺みたいな子どもたちがいるんだ。学校や家の配給水を持ち寄って、必要な人に売るの。子どもの配給券はバレにくいから、おじさんたちが高く買ってくれるんだ」

久美子は息を呑んだ。配給水の転売は違法だった。法律では「水資源の公平な配分を妨げる行為」として、厳しい罰則が設けられている。しかし、それ以上に気になったのは、なぜ子どもたちがそんなビジネスを始めたのかという点だ。

「でも、それは悪いことよ」

久美子は言葉を選びながら話した。息子を傷つけたくない。彼の自信に満ちた表情を消したくない。けれども、これは正さなければ。

「そうかな?」

良太は首を傾げた。父親に似た、少し意固地な表情が浮かぶ。

「三丁目の大きな家の人たち、前はたくさんCO₂を出していたんでしょ?お金でカーボンクレジットを買って、知らんぷりしてた。俺たちは水を売ってるけど、それとなにが違うの?」

久美子は答えに窮した。確かに、この町の裕福な区域には、カーボンオフセットで豪華な生活を続ける人々が住んでいた。温暖化が進み、水不足が深刻化しても、彼らの家の前には相変わらず大きな車が止まっていた。プールのある家もある。

「お母さん、学校で習ったよ。『資源の価格に正義を織り込む』って。先生が言ってた『環境価値の内部化』だよ」

良太は学校で習った言葉を得意げに使った。久美子は息子の言葉に複雑な思いを抱いた。彼が理解しているのは言葉だけで、その背後にある矛盾には気づいていない。しかし、それは子どもだけの問題だろうか。大人たちもまた、同じ矛盾を抱えながら生きているのではないか。

「今日はピザ、食べていい?」

良太は話題を変えた。普段、外食は贅沢品だ。しかし今日は特別な日。息子が「稼いだ」日。

「…そうね」

久美子は頷いた。短い会話の間に、何かが変わった。息子の視線が、少し大人びて見える。


夕食時、テレビが「水っ子」の特集を放送していた。全国的な現象になっていると報じていた。東京、大阪、名古屋…各地で子どもたちによる水ビジネスが活発化している。

「水不足時代の新たな課題」というタイトルで専門家たちが議論していた。子どもたちの行動を「クライメート・ジャスティス(気候正義)の歪んだ解釈」と評する経済学者もいれば、「新しい世代の気候危機への対応」と賞賛する環境活動家もいた。

久美子は食器を洗いながら、その議論を耳の端で聞いていた。わずかな水で皿を洗う技術は、今や主婦の必須スキルだ。かつては気にせず流していた水。今はタオルで拭い、一滴も無駄にしない。

良太は宿題をしながらも、テレビに注目していた。

その夜、久美子はベランダに置いた小さな雨水タンクを眺めていた。かつては家族の趣味だった植物を育てるために設置したものだ。良太が幼い頃、夫と一緒に庭いじりをしていた頃の記憶。今はほとんど空になったタンクだけが、その名残りだった。

夫は三年前、仕事を求めて北海道へ。水源地を持つ地域で、より良い給料と生活環境があると言われていた。家族での移住を約束したまま、連絡が途絶えて久しい。

久美子はタンクに手を当てた。金属は冷たく、乾いていた。


翌朝、奇跡が起こった。

久美子が目を覚ますと、不思議な音が聞こえた。忘れかけていた、しかし懐かしい音。 窓を開けると、三年ぶりの本格的な雨が降り出していたのだ。

「良太、見て!雨よ!」

半袖のパジャマのまま、久美子はベランダに飛び出した。冷たい雨粒が彼女の肌を打つ。髪が濡れ、顔が濡れる。久美子は思わず両手を広げ、顔を上に向けた。

近所からも歓声が聞こえてきた。人々は喜び、子どもたちは久しぶりに雨の中を走り回った。

久美子は急いで雨水タンクの蓋を開けた。水がポタポタと溜まっていく音が、この上なく愛おしい。

「良太、雨よ!早く起きて!」

息子の部屋のドアをノックすると、すでに起きていた良太が出てきた。しかし、彼の表情は複雑だった。彼は心配そうに窓から空を見上げていた。

「どうしたの?嬉しくないの?」

久美子が訊ねた。

「これで『水っ子』のビジネスが終わっちゃう」

良太の声は小さかった。彼の目には失望の色が浮かんでいる。たった一日の経験だったのに、それは彼にとって大切な何かだったようだ。認められる経験。役に立つ経験。

久美子は息子を抱きしめた。小さな体が、少し抵抗してから、力を抜いた。

「でも良かったじゃない。みんなに水が行き渡るよ」

良太は黙ったまま、母親の腕の中で小さくうなずいた。しかし、すぐに彼は抱擁から抜け出し、タブレットを取り出して何かを検索し始めた。

「次は『空っ子』かな」と、つぶやいた。

「空っ子?」

「うん、街の空気汚染マップを子どもたちが作って、空気がきれいな場所を教える。有料で」

久美子は言葉を失った。雨の音が彼女の沈黙を埋めていく。

次の世代は、私たちの作った歪んだ「正義」をどう解釈し、どう生きていくのだろう。彼女は雨音を聞きながら、複雑な思いを抱えていた。

雨は降り続けた。タンクが満たされ、地面が潤い、乾いた木々が水を吸い上げる。しかし、久美子の心の乾きは、簡単には癒されなかった。

良太はすでに次の「ビジネス」を考えている。彼の目には、かつて彼女が見たことのない光があった。それは希望なのか、あるいは別の何かなのか。

久美子は雨に濡れたベランダから、息子の姿を見つめていた。

#創作大賞2025 #お仕事小説部門 #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

いいなと思ったら応援しよう!

國分裕之 あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。