火の調停者 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「これが最新の火災抑制ドローンです」
森林局の上級技術者・松本は苦笑いしながらホログラム画面に映る小型機を指した。画面の光が彼の疲れた顔に青白く反射していた。2040年の技術の粋を集めた機体は、去年のモデルより30%小型化され、火災感知性能は——カタログ上では——2倍に向上していた。
「素晴らしい」と局長が頷いた。背広の袖口が少しほつれていることに松本は気づいた。「これで森林火災の被害を抑えられるはずだ」
過去20年間、気候変動の進行により森林火災は頻度、規模ともに増大していた。熱波と乾燥が続く夏、世界中の森は火の海と化した。昨年の北米大火災では、コロラド州の9割が焼失したとか。ニュースを見なくなって久しい松本は、それが本当かどうか確かめる気にもならなかった。
松本の開発したAIドローンシステム「フェニックス」——この名前は部下の若手が提案したもので、松本自身はあまり気に入っていなかった——は、山火事を早期に検知し、効率的に消火する画期的なシステムだった。少なくとも、そうであるはずだった。各ドローンが森林内を巡回し、発火の兆候を感知すると即座に消火活動を開始する。さらに、火の進路を予測し、効果的な防火帯を形成する機能も備えていた。
「来週から北海道の森林地帯でフィールドテストを実施します」
松本はポケットから母からもらった古い木製のお守りを握りしめた。
フィールドテスト初日、松本は森林監視センターで緊張した面持ちでモニターを見つめていた。100機のドローンが予定通り起動し、森の上空をパトロールしていた。朝、宿舎のシャワーが壊れていて、髪を洗えなかったことが妙に気になる。
「システム安定。異常なし」と助手が報告した。彼女の名前が思い出せない。確か先月異動してきたばかりだったか?
松本はほっと息をついた。しかし、その安堵は長くは続かなかった。
「不思議ですね」と気象データを分析していた若手研究員——井上か伊藤か、似たような名前の——が呟いた。「この地域で急に温度が上昇しています」
画面には確かに、森の一角で温度が急上昇している様子が映っていた。井上(たぶん)の髪が肩に触れるたび、シャンプーの柑橘系の香りがした。
「火災の初期段階か?」と松本は身を乗り出した。二日酔いの頭がズキンと痛んだ。
すぐにドローンが現場上空に到達し、映像を送信してきた。しかし、そこに火の気はなかった。代わりに、数十匹のシカが集まっていた。
「何かの集会か?」と助手が首を傾げた。この角度から見ると、彼女は学生時代の恋人に少し似ていた。
さらに観察を続けると、シカたちは何かを囲むように輪を作っていた。中央には...古びたオイルランプがあった。松本は目を疑った。そんなものがあるはずない。
「あれは...人間のものだ」
映像を拡大すると、オイルランプの周囲に小さな木の枝や枯れ葉が整然と並べられているのが見えた。まるで意図的に配置されたかのように。少し酔っぱらった夜に焚き火をした時の配置を思い出させた。
「まさか」と松本は思わず声を上げた。「シカたちが火を起こそうとしている?」
全員が信じられない光景に言葉を失った。空調の音だけが聞こえる。
数分後、驚くべき事態が起きた。一頭の大きなオスジカが前に進み出て、角でオイルランプを倒した。ランプの油が予め配置された枯れ葉に広がり、小さな炎が上がった。
「直ちに消火せよ!」と松本は命じた。声が裏返った。ずっと昔、実家が火事になりかけた時のことを思い出していた。
ドローンは即座に反応し、消火剤を散布した。火はあっという間に消えた。スクリーンでは何もかもが灰色に見えた。
シカの群れは一瞬混乱したが、すぐに別の場所に移動し始めた。人間の計画を見透かしたかのように。
「追跡せよ」松本の背中に冷や汗が流れた。
驚いたことに、シカたちは別の場所でも同様の行動を取った。今度は倒木の下に枯れ葉を集め、それに向かって二頭のシカが角同士を激しくぶつけ合った。火花が散り、再び小さな火が点いた。それは松本が大学の実験で、石と石をこすり合わせて火を起こした時と同じ光景だった。
「信じられない...彼らは意図的に火を起こしている」わけがない、と言いかけて松本は言葉を飲み込んだ。
松本のチームは一日中、シカたちの火起こしを阻止し続けた。夕方までに計11回の発火が試みられた。松本は胃が痛くなって、昼食に食べた研究施設の食堂のカレーを後悔した。
一週間後、松本は緊急会議で発見を報告していた。会議室の窓から見える山々は澄んだ初夏の光に包まれていたが、松本の心は晴れなかった。
「これは単なる偶然ではありません。北海道の複数の森林で、シカによる意図的な火起こし行動が確認されています」と言いながら、自分でも信じられない気持ちだった。
「しかし、なぜシカが火を?彼らは火を恐れるはずだ」と森林局長は混乱した様子だった。昨晩徹夜で作ったプレゼン資料を全く見ていない。
生態学者の佐藤が答えた。彼は松本の大学の先輩だった。40過ぎても独身で、昔から変わらない安いアフターシェーブの匂いがした。「私たちの分析によれば、これは適応行動の可能性があります。過去数十年、頻発する森林火災により、森林の古い下層植生が焼け、その後に新芽が生えるサイクルが生まれました。シカたちはこの新芽が栄養価が高いことを学習したのです」
松本には佐藤の理屈が胡散臭く思えた。彼が大学時代、データを改ざんして学会発表したという噂を思い出す。証拠はなかったが…
「つまり、彼らは意図的に火を起こして、自分たちの食料環境を改善しようとしている?」松本の声は少し冷たかった。
「その通りです。さらに驚くべきことに、彼らは火の制御方法も学んでいるようです。小規模な火災を起こし、それが大きくなる前に移動する。まるで焼き畑農業のようです」佐藤は楽しそうだった。
会議室は沈黙に包まれた。誰かがボールペンをカチカチ鳴らす音が響く。
「では、我々のドローン消火システムは...」と松本が言いかけた。
「シカにとっては、食料生産を妨げる敵ということになります」と佐藤は言った。昔から持っていた金縁の眼鏡を得意げに直す。「彼らは既に対抗策を講じています。より分散して、同時に複数箇所で火を起こそうとしています」
森林局長は深いため息をついた。会議室のコーヒーは冷めてまずくなっていた。
「我々は森林火災を防ぐために最新技術を開発した。しかし、自然はそれに適応してしまった。シカたちは火を利用する方法を学んだのだ」
松本は窓の外の森を見つめた。そこでは、彼の開発したドローンが巡回していた。そして、その下では、新たな知性を身につけた動物たちが、次の一手を考えているかもしれなかった。あるいは、ただの鹿が、ただの鹿のように草を食んでいるだけかもしれない。
「私たちと彼らの間で、火を巡る新たな関係が始まったようです」と松本は静かに言った。本当はそんな大げさなことは思っていなかった。ただ会議を早く終わらせて、北見の実家に電話したかっただけだ。先週、母が入院したという連絡があったのだ。
火による破壊と再生。それは森の古からの法則だった。人間が介入しようとも、自然は常に思わぬ方向に進化していくのだ—とかなんとか、書類に書いておけば、予算はつくのだろう。
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