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1.5度の成功 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

マイケル・バレンタイン博士は壇上に立ち、数秒間だけ目を閉じた。

首都ジュネーブの国連気候行動会議場。2037年6月8日。彼は61歳の誕生日を、歴史的な発表をする日として迎えていた。緊張で喉がカラカラになるのを感じながらも、バレンタインは水に手を伸ばさなかった。この瞬間を、この感覚を、しっかりと覚えておきたかった。

「本日、我々は地球温暖化の抑制に成功したことを宣言します」

彼の声は予想より小さく、少し震えていた。会場からは控えめな拍手が起こった。前列に座る各国代表たちの多くは、ゆったりとした動作でスマホを取り出し、映像を撮影している。バレンタインは内心で眉をひそめた。

かつての会議では怒号や涙、熱狂的な喝采があったものだ。初期の頃は絶望と焦りが支配していた。2025年の「ドーハの悲劇」では、南太平洋の島国代表が壇上で自殺を図ったことさえあった。しかし今日の参加者たちは妙にのんびりとしていた。多くは半分目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべている。

「これは『グリーン・ハイ・プロジェクト』の成功によるものです」

バレンタインは手元のタブレットを操作し、巨大スクリーンにグラフを映し出した。世界中の大麻草栽培面積と大気中CO₂濃度の劇的な反比例関係を示すデータだ。会場の照明が少し暗くなり、グラフの緑と赤の線がよく見えるようになった。

2025年に始まった「CO₂高吸収作物による気候危機対策」は、当初はヘンプ(産業用大麻)のみが認可されていた。しかし科学者たちは、THC含有量の高い品種の方がCO₂吸収率が顕著に高いことを発見した。バイエルン大学のチームが偶然見つけたこの相関関係は、初めは学会でも懐疑的に受け止められた。

「大麻草は一般的な樹木の10倍のスピードでCO₂を吸収します」と彼は続けた。声が少し強くなった。「さらに、乾燥地帯を含む世界中で大規模栽培が可能なことから、我々は気候変動対策として大麻を全面的に合法化する『グリーン・ハイ条約』を提案しました」

会場の右側でクスクス笑う声が聞こえた。カナダ代表団の一人が「素晴らしい名前だよね~」と呟き、周囲から穏やかな笑いが起こった。バレンタインは軽く咳払いをした。彼自身、この条約名には反対だったのだ。真面目に受け止められないと。

「2027年に施行された条約により、世界の200か国が大麻栽培を合法化。わずか10年で地球の植生の15%が大麻草になりました」

バレンタイン博士は数字を強調するように手を動かした。その指には大学時代からのニコチン染みが残っていた。喫煙は20年前に辞めたが、黄ばみだけは消えなかった。

「CO₂吸収量は予想を上回り、気温上昇は産業革命前比で1.5度以内に抑えられています。これは、パリ協定で目指した目標を、我々が実際に達成したことを意味します」

前列で小さな拍手が起こり、それがゆっくりと会場全体に広がった。しかし熱狂的とは言い難い反応だった。バレンタインは少しがっかりしながらも、質疑応答に移った。

イギリスのBBC記者と思われる女性が、ゆっくりと手を挙げた。赤いワンピース姿で、会場の中では目立っていた。

「質問です…」彼女は笑みを浮かべながらマイクに向かって言った。「では、なぜ今日の会場はこんなに...のんびりしているのですか?」

会場に小さな笑いが広がった。バレンタイン博士は苦笑した。この質問は予想していた。

「それは...私たちの成功の副作用の一つです」

彼はスライドを切り替えた。世界的な大麻使用率のグラフが表示される。2037年には成人人口の78%が「定期的使用者」となっていた。

大麻合法化による経済効果は絶大だった。新産業が勃興し、大麻関連製品の世界市場は3兆ドルに達した。税収は増加し、犯罪率は劇的に低下した。しかし、予想外の展開が訪れた。大麻使用の一般化により、社会全体が「マイルドにハイ」な状態になっていったのだ。

「人々は穏やかになり、紛争は減りました」バレンタインは説明した。「2031年以降、世界規模の武力衝突は発生していません」

彼は一瞬、客観的に自分の立ち位置を認識しようとした。彼自身は「非使用者」の一人だった。世界人口の22%に属する少数派だ。

「しかし同時に、生産性も低下し、イノベーションのペースも鈍化しました。『まあ、いっか』が世界共通の合言葉になっています」

バレンタイン博士はため息をついた。肩が少し下がる。「私たちは気候危機を回避しましたが、人間の活力も...いわば回避してしまったのです」

アル・ジャジーラのバッジをつけた男性記者が次の質問をした。彼の動作はゆったりとしていたが、目は鋭かった。「それって問題ではないのですか?」

「哲学的な問いですね」博士は答えた。「地球を救うために人間の進取の気性を犠牲にするのは妥当か?」

彼は壇上を少し歩きながら考えを整理した。「かつての私たちは常に成長、拡大、加速を求めていました。それが気候危機を生んだのです。今の社会は環境的に持続可能ですが、文化的、技術的な停滞も起きています」

会場の隅から、ある女性が立ち上がった。一流AIシステム開発企業の創業者で、数少ない著名な「非使用者」として知られるジン・チャン博士だった。彼女の姿勢は真っ直ぐで、目には鋭い光があった。

「私たちはCO₂の問題は解決しましたが、人間の潜在能力を発揮する社会は失ったのではないでしょうか」彼女の声は明確だった。「私の会社では、大麻を使用しない従業員に30%の給与ボーナスを出していますが、そのような人材を見つけることが年々難しくなっています」

バレンタイン博士は肩をすくめた。「宇宙植民地化計画も、核融合エネルギー開発も、量子コンピューティングも、すべて『まあ、別にいいか』で停滞しています。でも地球は救われました」

彼の声には、自分でも気づかない皮肉が混じっていた。気候学者としてのキャリアを通じて、彼は地球を救うことを一番に考えてきた。そして実際に救った。しかし、その方法は彼が想像していたものとは全く違っていた。

チャン博士は皮肉な笑みを浮かべた。「結局、私たちがやったのは、問題を解決するのではなく、問題に対する感覚を鈍らせただけではありませんか?」

会場に小さな緊張が走った。しかし、すぐに元の穏やかな雰囲気に戻った。チャン博士の鋭い指摘も、多くの参加者には「まあ、それもそうだよね」という程度にしか受け止められていないようだった。

バレンタイン博士は大きな窓の外を見た。かつては研究所や工場だった建物の多くが、今は大麻草の栽培施設に変わっていた。緑豊かで美しい風景だった。空気は清浄で、生物多様性も回復していた。

そして人々は幸せそうだった。少なくとも、穏やかで満足そうに見えた。しかし、その目には以前ほどの輝きがなくなっていた。野心、情熱、緊張感—それらは全て、マイルドな幸福感に置き換えられていた。

「私たちは選択をしたのです」博士は静かに言った。「地球を救うか、それとも人間の野心を守るか。前者を選びました」

会議は予定通り進行したが、誰も緊急性を感じていなかった。議題は淡々と処理され、決議は全会一致で採択された。かつてはわずか0.1度の温度上昇をめぐって激論が交わされた同じ会場で。

最後に、バレンタイン博士は締めくくった。

「我々は成功しました。地球温暖化は1.5度で止まりました。人類の進歩も...1.5度で止まりましたが」

彼は自分のジョークに少し照れたように微笑んだ。会場はリラックスした拍手に包まれた。人々は満足していた—少なくとも、そう感じていた。

バレンタイン博士は壇上を降りながら、自分の次の研究テーマについて考えていた。「大麻の効果を中和する植物の開発」。研究資金は得られるだろうか。いや、そもそも誰かがそれを必要だと感じるだろうか。

彼はため息をついた。外では美しい夕日が沈みかけていた。世界は救われた。それだけで十分なはずだった。

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