二つの真実 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
井出は、額の汗を拭いながらオフィスの窓から東京湾を見下ろした。7月だというのに、もう8月の暑さだ。会議室のドアが開く音がして、CFOの村山が入ってきた。
「来たか。資料は準備できているな?」
村山は頷くと、データパッドを会議テーブルに置いた。
「はい。ですが、井出さん、今回の統合報告書は少し…」
「何だ?問題でもあるのか?」
「非財務情報と財務情報の同時開示が義務化されて初めての報告書ですから、整合性に不安があります」
井出は鼻で笑った。S&C株式会社の代表取締役として、彼はこの5年間、電力インフラとサステナビリティ事業の急拡大に命を注いできた。2030年、気候変動対策が本格化する中、企業の情報開示も大きく変わった。
「そこまで心配することはない。うちの会社のカーボン・リダクション実績は業界トップだ。むしろ、そっちを強調して、四半期の利益の下振れをカバーしたい」
村山は不安そうに首を傾げた。「ですが、グリーン投資の計上と実際の排出量削減効果の数値が…」
「細かいことだ」と井出は言葉を切った。「我々の会社は国の脱炭素政策の最前線にいる。メディアも株主も、そこに注目している」
会議室のディスプレイが点滅し、秘書の顔が表示された。
「井出様、統合報告書分析官の北条様がお見えです」
「もう来たのか」井出は時計を見た。「早いな…通してくれ」
北条は30代半ばに見えたが、その眼差しには若者とは思えない鋭さがあった。財務省と環境省の連携で設立された報告書監視委員会からの分析官だ。
「お忙しいところ失礼します」と北条は言った。「今回の統合報告書審査は初めてのことで、皆さんも戸惑っておられるかと思います」
井出はにこやかに応じた。「いえ、私たちはむしろ歓迎しています。S&Cの環境への取り組みは誇りですからね」
北条はデータパッドを取り出し、会議室のシステムと同期させた。
「では早速、非財務情報から見ていきましょう。貴社の排出量削減実績は…確かに素晴らしい数字ですね」
井出は満足げに笑った。「ありがとうございます。特に新開発のマイクログリッド技術による貢献は大きいですよ」
「興味深いです」と北条は言った。「このマイクログリッド導入によるCO2削減効果…年間25万トン。このデータの測定方法を教えていただけますか?」
村山が資料を開き説明を始めた。井出は少し緊張しながらも、話の流れに満足していた。査察はたいてい非財務情報、つまり環境対応の部分に焦点が当たる。財務の部分は従来通り会計士が後日チェックする。分離していたものが今回から統合されただけだ。
「…そして各施設からのリアルタイムデータを統合システムで管理しています」と村山が説明を終えた。
北条は静かに頷いた。「なるほど。では次に、この削減効果と…こちらの設備投資の数字を照らし合わせたいのですが」
村山の表情が硬くなるのを、井出は見逃さなかった。
北条は淡々と続けた。「貴社の財務諸表によると、マイクログリッド関連の設備投資は過去3年間で約90億円となっていますね。一方、技術仕様書によれば、この規模の設備で実現可能な最大削減量は…年間約12万トンです」
部屋の空気が凍りついた。
井出は咳払いをした。「それは、私たちの革新的な運用方法による最適化で—」
「さらに興味深いのは」と北条は井出の言葉を遮った。「本社ビルのエネルギー使用実績と、報告書に記載された削減効果の間に見られる不一致です」
彼女はさらに別の表を開いた。「都の排出量取引制度のデータベースによると、貴社の実際の電力使用量と、報告書上の数値には約17%の乖離があります」
「それは…」井出の言葉が詰まった。
「統合報告書の意義は、まさにここにあるんです」と北条は穏やかに言った。「非財務情報と財務情報を同時に、同じ文脈で分析することで、見えてくる真実があります」
井出の額から汗が一筋流れ落ちた。オフィスの冷房は効いているはずなのに。
「つまり、CO2削減効果を過大報告することで、その分の国からの補助金や税制優遇、さらには投資家からの評価を不当に得る。一方で財務諸表上では、実際には行われていない設備投資を計上することで利益を水増しする…」
「待ってください」井出は立ち上がった。「それは誤解です。私たちは—」
北条は静かに手を上げた。「私は分析官です。判断を下すのは私の仕事ではありません」
彼女はデータパッドを閉じ、立ち上がった。
「統合報告書制度が始まって初めての大型粉飾事件になるかもしれませんね。皮肉なことに、環境対策の数字が財務不正を暴く鍵になるとは」
窓の外では、東京湾に沈む夕日が、まるで炎のように赤く燃えていた。
井出は窓に映る自分の姿を見た。彼の頭の中では、かつて大学の恩師が言った言葉が鳴り響いていた。
「ビジネスには二つの真実がある。一つは株主に見せる真実。もう一つは、地球に対する真実だ」
彼はため息をついた。今日、その二つが初めて一つになったのだ。
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