肉を知らない料理人 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
寿山圭介は、今日も鼻を鳴らしていた。
六十三歳の鼻筋には既に深いシワが刻まれ、長年の喫煙で黄ばんだ口髭が微かに震える。試食する前の儀式のような仕草だ。
「これは違う」
銀のフォークを置き、寿山は眉を寄せた。
「豆腐臭さの残滓がわずかに認められる。大豆由来のヘム鉄含有量が足りないのでは?」
彼の言葉に、若いシェフたちは額に汗を浮かべた。特に調理責任者の岸本は顔が青ざめている。一週間かけて調整した配合だったのに。
寿山圭介は、日本で五人しかいない「代替肉ソムリエ」の一人。本物の肉を食べてきた最後の世代として、その舌は業界で最も恐れられていた。美食家というよりは審判者。彼の一言で、新商品の運命が決まることもある。
「すみません、もう一度調整します」
岸本が頭を深く下げると、他のスタッフも続いた。彼らの白いコックコートが一斉に前に傾ぐ様子は、どこか雪が降り積もる風景のようだ。
時は2048年。梅雨明けの東京は、温度調節された都市ドームの下でも蒸し暑かった。グローバル食品安全法の施行から15年、従来の畜産は「環境犯罪」として、医療目的以外での生産が世界的に禁止されていた。食肉産業が地球温暖化の主要因とされてからだ。一般市民が口にするのは、ほぼすべてが植物性タンパク質や培養技術による「代替肉」である。
寿山がモデル認証を行う代替肉レストラン「メモリーミート」は、開店を翌週に控えていた。高級商業施設「新東京タワー」の38階。窓からは、綿菓子のような雲の下に広がる東京の街が見える。
オーナーの南條は焦っていた。四十代前半のこの男性は、IT産業で成功した後、「食の記憶」をテーマにしたこのレストランに全財産を投じたのだ。
「寿山さん、正直に言ってください。うちの代替牛タンは合格点ですか?」
電気蝋燭の灯りだけが揺れる個室で、南條は神妙な面持ちで尋ねた。テーブルの上にはまだ半分ほど残った代替牛タンがある。焦げ目はリアルで、脂の光沢も見事に再現されている。
寿山は小さくため息をついた。肋骨が痛んだ。年のせいだろう。
「あと一歩だ。歯ごたえは完璧」彼はゆっくりとグラスのワインを回しながら言った。「だが、かつての牛タンの持つ微かな甘みが足りない」
南條は首を振った。シャツのボタンが一つ外れているのに気づいていない。「でも寿山さん、もう本物の牛タンを食べた人はほとんどいないんです。そもそも比較対象がない」
窓の外で、光の帯が動いている。空中ドローンタクシーだろう。
「だからこそ、私たちがいるんだ」と寿山は落ち着いて言った。声に力を込めて。「本物を知る最後の世代として、記憶を伝える義務がある」
南條は何か言いかけたが、黙った。無理もない。寿山が認証を出さなければ、開店は延期される。莫大な投資が無駄になる。
その夜、寿山は自宅アパートの窓際に座り、都心の夜景を眺めていた。15年前に買ったこの部屋は、当時は高級物件だったが、今では古びて見える。壁にはレトロな装飾として、焼肉店で撮った若い頃の写真が飾られていた。
彼の職業は「記憶の番人」とも揶揄された。本物の肉を知る者として、忠実な再現を求める寿山たちと、もはや新しい味として評価すべきだという若い世代の間には、常に緊張があった。
彼は棚から古いノートを取り出した。そこには20代の頃から記録してきた食の記憶が詰まっている。特に肉料理の味は克明に記録してある。いつしか趣味が仕事になり、最後は使命になった。
翌朝。寿山が事務所に向かおうとした時、インターホンが鳴った。早朝の訪問者など珍しい。彼は眉をひそめながらドアを開けると、メモリーミートの若いシェフ、真木が立っていた。
「寿山さん、これを食べてください」
彼は小さな保温容器を差し出した。黒髪が乱れ、目の下にクマがある。明らかに徹夜している。
真木は28歳。生まれた時には既に一般向け畜産は厳しく制限されていた世代だ。彼は本物の牛タンを食べたことがない。寿山の目から見れば、若い彼らは「想像上の味」を追いかけているようなものだ。
寿山は玄関先で静かに容器を開け、その代替肉を口に含んだ。
そして、彼の表情が変わった。
喉の奥から何かが込み上げてくるような感覚。かすかに目が潤む。
「これは...」
「昨夜から研究室で実験を重ねました」と真木は言った。声は疲れているが、目は輝いている。「古い料理書を読み漁り、昭和時代の焼肉店のレシピから推測して...」
寿山は黙って頷いた。確かに違う。肉の味そのものはまだ完璧ではない。大豆ベースであることは専門家の舌ならわかる。しかし、かつての牛タンを取り巻いていた「何か」—塩加減、焼き方、添えられる野菜の香り—それらが絶妙に組み合わさり、彼の記憶を呼び覚ましていた。
「君は本物を知らないのに、どうしてここまで...?」
唇が震えるのを抑えられない。老いた舌が、40年前の記憶と重なる味を感じている。
真木は少し恥ずかしそうに微笑んだ。頬に疲労のシワが寄る。
「祖父が昔、よく話してくれたんです。仙台の牛タン専門店での思い出を。祖父はもう亡くなりましたが、その話だけは覚えています」
彼はポケットから古びた紙切れを取り出した。走り書きのレシピだった。
「これは祖父の形見です。『いつか本物の牛タンが食べられる日が来たら』と言って残してくれたものです」
寿山は感じた。本物の肉を知らない世代が、別の形で記憶を継承しているのだと。彼らは経験ではなく、物語を通じて味を追求している。そこには寿山たちにない情熱があった。
翌週、メモリーミートは大盛況でオープンした。食べログHGには「記憶以上の味」という評価が踊った。人々の舌は、知らないうちに変化していた。代替肉は、もはや「代替」ではなく、新しい食文化として定着しつつあった。
認証書にサインをする際、寿山は真木に言った。
「私たちが守るべきは、肉そのものではなかったのかもしれない。それを取り巻く人間の記憶や文化だったのかもしれないな」
ペンを置く手に、かすかな震えがあった。
真木は頷いた。「それなら、代替肉でも継承できます」
ふたりは、レストランの窓から見える東京の風景を眺めた。新しいビルと古い建物が共存する街並み。どこか似ている、と寿山は思った。彼らもまた、古い記憶と新しい技術が交わる境界線に立っているのだ。
寿山は微笑んだ。彼の役割は、単に過去を守ることではなく、未来への橋渡しだったのだと、初めて実感していた。
古いものと新しいものが、記憶を通じて手を取り合う瞬間だった。
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