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青い炎 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

松田は自宅キッチンのeメタン調理器に向かって、うっすらと笑みを浮かべた。買ってから三年目。今ではすっかり手放せない存在になっていた。

「やっぱりガスの炎は違うなぁ」

彼は思わず呟いた。電気調理器で育った若い世代には理解できないだろうが、彼のような四十代には「火で料理する」感覚が懐かしかった。妙に安心する。子供の頃、母がキッチンに立つ音と香りの記憶。

「本日も東京中央区で計画停電が実施されます。時間帯は15時から19時まで…」

リビングのスマートスピーカーが事務的な声でアナウンスを流し始めた。松田は思わず腕時計を見た。14時37分。あと20分ほどで停電だ。

外の温度計は37度を示している。窓から差し込む陽射しが、部屋の中で不自然に強い光の帯を作っていた。十年前なら記録的猛暑と大騒ぎになっただろう。いや、十五年前か。今じゃこんなもんが「平均的」だ。

カーテンを引こうかと思った時、背後から声がした。

「おじさん、それ何?」

振り向くと、甥の健太が好奇心いっぱいの顔で立っていた。姉が週末旅行で、9歳の甥を預かっている。昨日から来ているが、緊張していたのか、これまであまり話しかけてこなかった。

松田は思わず調理器をなでた。昨年のエネルギー割当改正後、各家庭に設置が進んだ最新モデルだ。

「これはね、eメタン調理器っていうんだ。お父さんやお母さんの家にもあるでしょ?」

健太は少し考え込んでから、首を傾げた。つぶらな瞳に疑問符が浮かんでいる。彼の襟元は少し汗ばんでいた。

「ウチ、古いマンションだから電気だけだよ。それになんかパパが、『高いから』って言ってた」

松田は思わず苦笑した。姉の夫は保守的なタイプだ。新しい技術への投資にはいつも慎重すぎる。

「そっか」彼はしゃがんで健太の目線の高さになった。「これはね、太陽光とか風力で作った電気から、メタンっていうガスを作るんだ。このガスがあれば停電しても調理できるし、少しだけど発電もできるんだよ」

松田は冷蔵庫を開け、昨日の夕食の残りの麻婆豆腐を取り出した。豆腐が少し崩れている。昔なら停電中に冷蔵庫の中身が常温に戻ったら、念のため捨てていただろう。いや、彼の母親なら絶対に捨てていた。あの世代は食品安全に神経質だった。

木目調のテーブルに鍋を置きながら、松田は続けた。「マンションのベランダにあるこの小さなパネルでメタンを作って、調理も発電もできるんだ。しかも、余分な二酸化炭素を出さない」

彼はeメタン調理器のスイッチを入れた。ガスコンロとは違う、より青い透明な炎が静かに立ち上がる。少し低い音で「シュー」と言っている。

健太は真剣な表情で炎を見つめていた。生まれて初めて見る光景なのかもしれない。

「じいちゃんは昔、温暖化が進んでこんな暑くなると、食中毒が増えて大変になるって言ってた」

突然の発言に、松田は少し驚いた。健太のじいちゃん、つまり松田の父は五年前に他界している。こんな話を覚えているとは。環境教育が行き届いているのは良いことだが、少し物悲しさも感じた。

「そうだったんだ…」松田は鍋をかき混ぜながら言った。「おじいちゃんは先見の明があったね。でもこの調理器のおかげで、どんな状況でも安全に再加熱できるんだ。しかも電力割当に縛られないから、安全のために必要な温度まで、しっかり加熱できる」

調理器に内蔵された温度センサーがスマホのアプリと連動し、食品の中心温度をモニタリングしている。鍋の中の様子が見えるのは、何だか不思議な感覚だ。

「中心温度75度に達しました。細菌汚染リスクはゼロです」

アプリが淡々とアナウンスする。この声、ちょっと不気味なんだよな、と松田は思った。いつか設定変えようと思いつつ、ずっとそのままだ。

松田は温まった麻婆豆腐を皿に盛った。豆腐の角が丸くなってしまっているが、香りは食欲をそそる。少し油が分離しているが、それも風味になっている。

健太は椅子に座りながら、熱心に炎を見つめていた。「おじさん、これって本当にCO2出ないの?」

子供の素直な疑問。松田は麻婆豆腐をテーブルに置きながら考えた。どう説明すれば9歳の子供に伝わるだろう。

「そうだよ。このeメタンは『カーボンニュートラル』といって、燃やしても新たなCO2を増やさない…というか」少し言葉に詰まった。「むしろ、作るときに大気中のCO2を使うから、『カーボンネガティブ』なんだ。地球にとっていいことなんだよ」

健太は「へぇー」と小さく呟いた。理解したかどうかは微妙だ。

松田は窓の外を見た。14時53分。あと7分で停電だ。向かいのマンションのベランダには、同じようなeメタンシステムの小さなパネルが何台も見える。最初は災害対策だった。台風や地震の増加で停電リスクが高まる中、各家庭単位での「エネルギー自立」が国策として推進された。結果的に、温暖化対策と食品安全の問題も同時に解決する道が見えてきた。

遠くで雷が鳴った。夏の夕立が近づいているのかもしれない。ますます停電の可能性は高まる。

「でも学校で習ったよ」健太が麻婆豆腐を口に入れながら言った。「メタンも温暖化ガスでしょ?牛のゲップとか」

松田は少し驚き、思わず笑顔になった。「よく知ってるね!そうなんだ、普通のメタンは温暖化ガスなんだよ。でもこのeメタンは閉じた循環の中で使うから大丈夫なんだ」

彼は箸で円を描くように動かした。「太陽光で水と二酸化炭素からメタンを作り、そのメタンを燃やすと、また水と二酸化炭素に戻る。これを永遠に繰り返せるんだ」

説明しながら、彼自身も改めてその仕組みの美しさを感じた。三年前、初めてこのシステムを購入した時の感動が蘇る。

「なんだか、自然の循環みたいだね」健太の言葉は素直だった。

「そうだね、まさにそれだ」松田は心から同意した。「自然に学んだシステムなんだよ」

窓の外で光が変わった。計画停電が始まり、街の電気が一斉に消えていった。エアコンの音が止まり、一瞬で部屋の温度が上がったように感じる。

でも彼らのキッチンだけは、青い炎が静かに燃え続けていた。古いガスコンロの炎より少し青く、少し静か。でも確かにそこにある、確かな熱と光。

閉ざされた循環の中で、永遠に回り続けるエネルギーの輪。

温暖化も、食品安全も、エネルギー不足も。これらの問題は、複雑に絡み合いながらも、ひとつの解で解決できるかもしれない。松田はふとそう思った。

「おかわりある?」健太の皿は既に空になっていた。小学生の食欲は素晴らしい。

「もちろん!」松田は微笑み、鍋からもう一度よそった。

その時、炎が映る健太の目に、未来への希望のようなものを見た気がした。

それは父の目に似ていた。

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