責任の果て 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
会議室の高解像度ホログラムには、グローバル資源配分委員会のロゴが輝いていた。スクリーンの下にはカウントダウンが表示されている。残り37分。
「お待たせしました」と遠野教授が言った。彼女の表情は、いつにも増して硬かった。「『未来世代向け資源保全条約』の最終的見直しに入ります」
20世紀初頭、ハンス・ヨナスの提唱した「未来倫理」は世界的な共感を呼び、国際条約にまで発展した。テクノロジーによる破壊力が増大する中、未来世代への責任を現代人が負うという考え方だ。
室内には8人の専門家がいた。科学者、哲学者、経済学者、社会学者——彼らは皆、「未来への責任」という概念に人生を捧げてきた人々だった。
「まず、井上さんから最新のシミュレーション結果を」
委員の一人、量子計算生態学者の井上が立ち上がった。彼女の指先から投影された3Dグラフが中央に浮かび上がる。
「これが最新の『資源-人口-テクノロジー』相関モデルです」と彼女は言った。「左が過去200年、右が予測される今後400年です」
グラフは美しいが、その意味は残酷だった。右側に行くほど、曲線は急激に上昇している。
「簡潔に説明すると」と井上は続けた。「人類の『責任量』が指数関数的に増加している。これは、ヨナスが想定していなかった事態です」
「責任量とは何ですか?」と若い倫理学者のロペスが尋ねた。
「ヨナスの理論に基づけば、我々が負うべき未来への責任は、我々の持つ力に比例します」と遠野が説明した。「問題は、その力—つまりテクノロジーと人口の掛け算—が、資源の有限性を考慮せずに増加し続けていることです」
沈黙が流れた。
「具体的な数値を見てみましょう」と井上は画面を切り替えた。「2025年時点で、人類が未来に対して負うべき責任は『ヨナス指数』で84でした。現在の2078年では372です。予測では2137年には1580に達します」
「そして資源は?」
「地球の物理的資源は、基本的に一定です」と物理学者のシュミットが答えた。「再生可能エネルギーの導入で若干の余裕はできましたが、原子や分子の総量は変わりません」
遠野はため息をついた。「つまり、ヨナスの予見していなかった矛盾に我々は直面している。責任は増え続けるが、その責任を果たすための資源は有限だということです」
「もう一つの問題は」と人口学者のムハンマドが口を開いた。「過去世代と現在世代と未来世代の間でのトレードオフです。我々がより多くを未来に残せば残すほど、現在の人々の生活水準は下がります」
「それこそがヨナスの主張でしょう」とロペスが反論した。「未来のために、現在の欲望を抑制すべきだと」
「理論的にはそうです」と遠野は言った。「しかし実践的には、無限の責任を有限の資源で果たすことは不可能です」
彼女はホログラムを操作し、新たな図を表示させた。複雑な方程式の集合体だ。
「これが『責任不能性定理』です。数学的に証明されました。資源が有限である以上、無限に増大し続ける責任を果たすことは不可能です」
「では、我々はどうすべきでしょうか」と誰かが尋ねた。
「私の提案は」と遠野は言った。「責任倫理を『時間的窓』で区切ることです」
「時間的窓?」
「はい。我々は今から100年後までの未来に対してのみ責任を負い、それ以降は次の世代に委ねるのです」
「それはヨナスの理論の放棄に等しい」とロペスが反論した。
「いいえ、その発展です」と遠野は静かに言った。「ヨナスは人間の力の増大を予測しましたが、その力が指数関数的に増加することまでは予測していなかった。彼の時代には、現代の量子コンピューティングや分子ナノテクノロジー、遺伝子最適化など想像もできなかったのです」
シュミットがうなずいた。「理論的には、未来世代は我々よりはるかに強力なテクノロジーを持つはずです。彼らは我々が想像もできない解決策を見つけるかもしれない」
「それはあまりに楽観的だ」とロペスは言った。
「楽観ではなく、論理的帰結です」と遠野は言い返した。「未来世代を『無力な犠牲者』として描くのは、彼らの知性と創造性を侮辱することになりませんか?」
ムハンマドが黙考していた。「私には子供が三人います」と彼は言った。「私は彼らを守りたい。でも、彼らが大人になったとき、私が全ての問題を解決していたら、それは彼らから成長する機会を奪うことにもなります」
会議室に沈黙が満ちた。
「提案します」と遠野は言った。「『責任の時間的分散』という新たな倫理原則を。各世代は、自分たちの直近の未来に対して最大の責任を負い、遠い未来に対しては、未来世代自身の解決能力を信頼する。つまり、責任は時間の二乗に反比例するというものです」
スクリーンのカウントダウンは10分を示していた。世界中が彼らの決断を待っていた。
「投票しましょう」と遠野は言った。
8つの端末に、同じ質問が表示された。
『ハンス・ヨナスの未来倫理を修正し、責任の時間的分散原則を採用するか?』
画面の向こうでは、110億の人々が暮らしている。過去の世代が残した責任の呪縛と、未来への不安の狭間で。
ロペスは深呼吸し、『賛成』のボタンを押した。
彼が最終投票を終えた瞬間、地球のどこかで、未知の技術革新が生まれていた。おそらく、彼らの悩みを一瞬で解決してしまうかもしれない何かが。あるいは、全く新たな問題を生み出す何かが。
それもまた、未来に任せるべきことだった。
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