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チーズの値段で恋は買える 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

――西暦2135年、東京第二特別区。

年の瀬。銀座セントラルタワー最上階では、超富裕層だけが集う「ノエル・ド・カマンベール」の夜が始まろうとしていた。外は雪が舞っているのに、タワー内の温度は厳密に21度に保たれている。

シャンデリアの代わりに吊られたのは、かつてフランス北部で採取され、100年以上熟成された「ミラージュ・ド・ブリー」の巨大なカット。淡い琥珀色に輝くそれは、もはや食べ物というより芸術品だった。会場には常温で置かれたチーズの香りが満ちている。ほんのりと甘く、どこか懐かしい匂い。

ワインは控えめに――というのがこのパーティの流儀だった。グラスを持つ手は洗練されているが、主役はあくまで「チーズ」なのだ。

主催者は金融界の女帝、志摩レナ。68歳という年齢を微塵も感じさせない姿勢で、彼女は部屋の中央に立っていた。その傍らに立つのは、ワインディレクターの成瀬遥斗。長身で痩せ型の彼は、かつて世界的なワインコンクールで優勝した経歴を持つ。だが彼はこの会で別の役割を担っていた。彼は今や、「チーズソムリエ」――政府認定の熟成士だった。長い指は古いチーズを見分ける感覚に特化していた。


「志摩さま、今年のメイン、開封してよろしいでしょうか」

成瀬は冷蔵セーフから、厳重に密封された木箱を取り出す。箱には2020年の古い日付が刻まれている。ナンバーコードが5つ、顔認証が2つ。最後に声紋。彼の喉がかすかに震えた。

カチャリと蓋が開いた。現れたのは、古代の宝石のような塊――2020年製のエポワス・ド・ブルゴーニュ。かつて「世界一臭いチーズ」と呼ばれたオレンジ色の王様。成瀬の手が震える。祖父の話で聞いただけの幻の味だ。

このチーズは、世界で最後の一つ。1ピース換算で11億円。 「時価じゃないのよ」と志摩が笑う。歯は完璧に白い。「今じゃビットチーズで計るの」


パーティが始まった。ライトが少し落とされ、壁の映像には古き良き時代のフランス田園風景が流れている。

貴族の末裔、火星移民代表、老舗カカオ財閥の御曹司……一癖も二癖もある面々が、舌を鳴らし、チーズの断片を奪い合う。皿にはほんの一切れ、指の爪ほどの大きさだけが乗せられている。

「私はこのブリーを南極で熟成させましたのよ」高齢の夫人が自慢げに語る。「海底の冷却室、電力ゼロ。持続可能って、ロマンでしょう?」彼女の指には重そうな翡翠の指輪が光る。

「うちの子なんて、チェダーの匂いで育ててるの。胎教って大事よ」別の女性が答える。彼女の頬は不自然なほど赤い。

談笑の中、成瀬はひとり静かに、ある女性を見つめていた。東側の窓辺に佇む、シンプルな黒のドレス姿。彼の目が見間違えるはずがない。

彼女の名は綾瀬弓音。かつて〈エクラ・デュ・ヴァン〉で共に修行し、環境規制でチーズが禁じられたあと、姿を消していた。彼女が手にしたグラスは、ほとんど口をつけられていない。

「……あれが、志摩の"次期後継者"か?」


深夜、パーティが佳境を迎える頃。東京湾の夜景がいっそう輝きを増した時、志摩が口を開いた。

「さて。年末恒例の競りに参りましょう」彼女の声は鈴のように会場に響く。「今年の目玉は――"最後のカマンベール"。誰が落とすのか、見ものね」

ざわつく空気。シャンパンの泡が弾ける音が聞こえる。 成瀬は硬直する。血の気が引いた。 それは、彼がかつて密かに保管し、師匠・吉村が最後に食した――あの"神の記憶"のレプリカだ。だが、どうやって……

「あなたが隠していたの、知ってたのよ」

志摩の瞳が、鋭く笑った。月明かりを浴びた猫のように。

「でも、私の世界ではね、"記憶"も買えるの。いくら払う?」

成瀬は震えながら、答えた。頬の筋肉が引きつる。

「それは……値段じゃない。味の問題だ」

沈黙。次の瞬間、綾瀬が前に出た。彼女の足音は静かだった。

「この人に売ってください」

「あなたに、何があるの?」志摩の目が細くなる。

「これです」

彼女が差し出したのは、チーズでも金でもない―― 吉村の残した、手書きの味覚ノートだった。黄ばんだ紙には、独特の匂いがついている。


その年、「最後のカマンベール」は売れなかった。 だが、それを再現するためのプロジェクトが始まった。思い出の味を求める人々は、まだそこにいたのだ。

綾瀬と成瀬は、新たなワイナリーを立ち上げた。チーズはもう作れない。けれど、味の記憶は人を動かす。彼らは新しい発酵食品を研究し始めた。過去を忘れず、未来を見つめて。

年が明け、初日の出を見ながら、綾瀬が言った。彼女の吐く息が、冷たい空気の中で白い雲になる。

「ねえ、来年のパーティ、どうする?」

成瀬は微笑む。手には小さな培養器があった。

「チーズなしで、泣かせてみせるさ」

その言葉は、朝日に溶けていった。

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