お先にどうぞの代償 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
日本を代表する大手企業、日進電機の環境経営戦略会議が開かれていた。出席者は皆、2050年カーボンニュートラル達成へのロードマップと書かれた分厚い資料を前に座っている。会議室には微かにコーヒーの香りが漂い、役員たちの高級スーツから新品の皮革の匂いがした。
「これが我が社の脱炭素戦略の全容です」
環境戦略室長の鈴木が胸を張って発表した。彼の額には小さな汗が浮かんでいた。パワーポイントには美しいグラフと写真が映し出されている。スクリーンの青い光が、役員たちの老いた顔を照らした。
「素晴らしいプレゼンでした」
社長の佐藤が頷いた。彼はネクタイを緩めながら、会議室の窓から見える工場群を一瞬見やった。昭和の古い工場から立ち上る白煙が、青空に溶けていくのが見えた。
「ところで、これを実行するには具体的にいつから本格投資を始めるべきなのかね?」
鈴木は少し咳払いをした。彼の右腕に、先月新調した腕時計が光っていた。取締役への昇進が約束された彼は、無意識に時計のベルトを触る癖があった。
「はい、それについてですが、欧米企業や中国企業の動向を見極めてからが賢明かと。先行投資は確かに企業イメージ向上に繋がりますが、技術は日進月歩です。後から参入すれば、より効率的な技術を採用できます」
彼は言いながら、自分の言葉に納得できない何かを感じていた。先日息子が「お父さんの会社、大丈夫?」と心配そうに尋ねてきたことを思い出した。息子の高校では環境問題が熱心に教えられているらしい。
「なるほど」と佐藤社長。「経営の王道だな。他社の失敗から学び、最適なタイミングで効率よく参入する」
佐藤の声には、かすかな疲労感が滲んでいた。彼はこれまで様々な決断を下してきたが、どれも自分の現役時代で結果が出る類のものだった。しかし今回の決断は、自分が引退した後、もしかしたら墓の中に入った後に影響するかもしれない。そんな決断は、生まれて初めてだった。
「おっしゃる通りです」と鈴木。「そのため、現時点では広報戦略に注力し、将来の脱炭素に向けて『準備している』というイメージを構築することが最重要かと」
鈴木は言葉を選びながら話した。昨夜、妻と「このままじゃ日本企業は世界に置いていかれる」と口論になったことを思い出す。しかし会社では、誰もそんな危機感を共有していなかった。
専務の田中が口を挟んだ。彼は会議中ずっと眉間にしわを寄せていた。「環境NGOや投資家からの圧力はどうする?」
「『検討中』『慎重に進めている』という表現で十分対応可能です」と鈴木は即答した。彼には十年前、環境NPOで働いていた元婚約者の顔が一瞬浮かんだ。彼女なら今、なんと言うだろう。「彼らが求めているのは具体的な成果ではなく、前向きな姿勢のアピールですから」
会議室には満足げな空気が流れた。これぞ日本企業の知恵、という表情を浮かべる役員たち。窓の外では、工場の煙突から立ち上る煙が、風向きを変えて本社ビルの方へと流れてきた。誰もそれに気づかなかった。
「では、実際の投資開始は2030年以降でよいか?」と佐藤社長が確認した。彼は鈴木の目を見つめたが、鈴木はその視線から逃れるようにタブレットを操作した。
「その頃には技術も成熟し、政府の支援策も充実しているでしょう」と鈴木は頷いた。心の片隅で何かが引っかかる感覚があったが、彼はそれを押し殺した。「それまではお先にどうぞ、というわけです」
彼は自分でも気づかないうちに、父親から聞いた昔の言葉を繰り返していた。「お先にどうぞ」と言いながら、誰も動かない。それが日本の作法だと。
会議は和やかな雰囲気で終了した。鈴木は会議室を出る前に、ふと窓の外を見た。遠くに見える富士山が、いつもより小さく感じた。
2036年。日進電機本社では緊急経営会議が開かれていた。会議室は以前と同じだが、窓の外の景色は変わっていた。緑化政策で建物の壁面には植物が茂り、以前は工場だった場所には太陽光パネルが並んでいる。しかし、日進電機のパネルだけは古く、効率も悪かった。
社長の椅子には鈴木の姿があった。十年前の環境戦略室長から出世を重ねた彼は、今や全社の舵取りを任されている。彼の黒髪は薄くなり、両こめかみには白いものが目立つようになっていた。机の上には、十年前と同じように分厚い資料が積まれている。しかしその内容は「緊急経営改善計画」と書かれていた。
「状況は最悪です」と財務部長が報告した。彼は眼鏡の奥の目を伏せがちにしていた。「EUへの輸出が全面停止。アメリカ市場でも環境課徴金で製品価格が競争力を失っています」
鈴木は無言で頷いた。机の上には、昨日の日経新聞が置かれていた。「脱炭素に出遅れた日本企業、国際市場で苦戦」という見出しの記事に、日進電機の名前が大きく載っていた。
「投資家の撤退も相次いでいます」と経営企画部長が続けた。彼は鈴木の昔の部下だった。「ESG評価で最低ランクに甘んじている現状では、資金調達も困難です」
鈴木は昔の会議を思い出していた。あの時、もっと強く主張していればよかったのか。それとも時代の流れを読み切れなかったのが敗因なのか。
「なぜこうなった?」と鈴木社長は深いしわの刻まれた額を抑えながら言った。彼の声には疲労と諦めが混じっていた。「我々は常に状況を見極め、最適なタイミングを待っていたはずだ」
その言葉に、かつての自信はなかった。
「問題は予想以上の速度で状況が変わったことです」と技術部長。彼は最近入社した若手で、海外大学院で環境工学を学んだエリートだった。「2020年代後半に環境技術革新が一気に加速し、各国の規制強化も想定を上回りました。我々がようやく重い腰を上げた2030年には、すでに手遅れだったのです」
鈴木は静かに窓の外を見た。雨が降り始めていた。小さな雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子が、なぜか涙のように見えた。工場の煙突からは白い煙が上がっていた。見かけ上は綺麗になったが、これとて世界標準からは程遠い旧式の対策だった。
「他社はどうしているんだ?我々と同じように苦境にあるのだろう?」
鈴木の声には、かすかな希望が混じっていた。同じ穴の狢であることを願う気持ち。
技術部長の顔が曇った。彼は言いにくそうに口を開いた。「いいえ。多くのライバルは2020年代前半からリスクを取って先行投資を始めていました。当時は収益を圧迫し、我々のような『賢明』な経営を揶揄されることもありましたが...」
「今では彼らが市場を席巻している」と鈴木は呟いた。彼は小さく咳をした。以前までは丈夫だった体も、最近では疲れやすくなっていた。
「そして、最も痛いのはこれです」と財務部長がタブレットを差し出した。彼の手は少し震えていた。
画面には「気候変動対策遅延賠償法」と書かれた国際条約の条文が表示されていた。2035年に発効したこの条約は、過去の排出量と脱炭素化への取り組み遅延に対して、企業に遡及的な賠償責任を課すものだった。鈴木はその金額を見て、眩暈を覚えた。
「当社の対象賠償額は...」
「言わなくていい」と鈴木は手で制した。その手には、かつてなかったシミが浮かんでいた。彼は椅子から立ち上がり、窓際に立った。
かつて誇らしげに煙を上げていた工場群を見つめた。今やその多くは操業停止に追い込まれていた。空気は確かに清浄になり、空が青く見えるようになった。しかし、その代償はあまりにも大きかった。
鈴木は十年前の自分を思い出していた。あの時、もっと勇気を持てていれば。リスクを恐れず、正しいと信じた道を選べていれば。息子の心配を真剣に受け止めていれば。
「お先にどうぞ、か」と彼は苦笑した。「結局、誰も先に行かず、皆が後ずさりしていただけだったんだな」
その時、秘書が慌てて入ってきた。彼女の顔は青ざめていた。
「社長、最高裁判所からです。気候変動集団訴訟、当社敗訴が確定しました」
部屋は静まり返った。窓の外では急に雨が強くなり、雷鳴が聞こえた。雨粒は激しく窓を叩き、まるで怒りをぶつけるかのようだった。
電子広告が雨の中でまぶしく光っていた。『未来は待ってはくれない』
鈴木はその言葉に、辛うじて頷いた。もう後戻りはできない。彼の時代に決断を先送りした代価を、今、支払わねばならないのだ。窓の外の雨は、まるで過去の過ちを洗い流すかのように、激しさを増していった。
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