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水素の潮流 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】


2033年11月の高砂製作所は、いつもより静かだった。かつてガスタービンのテスト音が響いていた実証エリアには、記念碑だけが残っている。「世界初の商用水素専焼タービン完成の地」。

僕は退職から二年が経つのに、なぜかこの場所に戻ってきていた。

あの日、水素100%専焼タービンが完成したとき、世界中から祝電が届いた。火力発電所の8割が水素転換を完了し、三菱重工のScope3排出量は99%削減。2040年の目標を7年も前倒しで達成した奇跡として語り継がれている。

でも僕は、どうしても腑に落ちなかった。

「お疲れさま」

振り返ると、同期の田中が立っていた。現在は水素タービン事業部の部長。かつて一緒に燃焼器の逆火対策に悩んだ仲間だった。

「まだ気になってるのか?」

僕は苦笑いした。「君も知ってるだろう。CCUSが間に合わなかった件」

田中の表情が曇った。僕たちが水素タービンの開発に夢中になっている間、もう一つの切り札だったCCUS—CO2の回収・利用・貯留技術の商用化は大幅に遅れていた。2030年目標だったものが、コストと法規制の問題で実現できていない。

「あれは仕方なかったよ。CO2回収のコストが1トンあたり7,300円では採算が取れなかった」

そう、僕たちはCCUSが予定通り進むと信じて、水素タービンと組み合わせれば完璧な脱炭素が実現できると思っていた。でも現実は違った。

世界中の火力発電所が水素専焼に転換した結果、水素需要が急激に増大した。現在、世界の水素の7割はグレー水素—天然ガスから製造され、CO2を排出する水素だ。本来なら、CCUSでそのCO2を回収・貯留する予定だったが、技術的にも経済的にも実現できていない。

「でも全体で見ればCO2は削減されてる」田中は言った。「従来の火力発電より60%は減ってるじゃないか」

「60%なら、まだ4割残ってるってことだ。しかも、その4割は見えないところに移っただけ」

僕たちの技術は確かに成功した。でも、その成功が新たな問題を隠していた。グリーン水素の製造が追いつかず、結局は化石燃料由来の水素に頼らざるを得ない。発電所から出るCO2は削減されたが、水素製造プロセスで排出されるCO2は増加していた。

「2020年代後半、俺たちはCCUSとセットで考えてたよな」僕は続けた。「でも蓋を開けてみれば、CCUS実証プロジェクトはコストが高すぎて頓挫。結局、水素だけが先行して普及してしまった」

田中は黙って頷いた。苫小牧での実証実験は技術的には成功したが、商用化のコストの壁は想像以上に高かった。

家に帰ると、妻が夕飯の支度をしていた。テレビでは政府の発表が流れている。「日本の水素発電普及率90%達成。世界のカーボンニュートラルをリード」。

「すごいじゃない、あなたの技術で世界が変わったのよ」妻は誇らしげに言った。

でも僕は複雑だった。確かに国内の発電所からのCO2排出は劇的に減った。でも水素の8割は海外から輸入している。アジア太平洋地域の天然ガスや石炭由来の水素、中東のブルー水素計画も商用化に至らず、結局はグレー水素のまま。製造地では相変わらずCO2が排出され続けている。

「あのとき、もっとCCUSに力を入れてたら違ってたのかな」僕はつぶやいた。

「CCUS?」

「CO2を回収して貯留する技術。水素と組み合わせれば、本当の意味でクリーンなエネルギーができたはずなんだ。でも実証段階で止まってしまった」

妻は首をかしげた。「技術的に無理だったの?」

「技術はできた。でもコストが...1トンのCO2処理に7,300円かかる。誰も投資したがらなかった」

テレビでは、水素発電の成功を祝う記者会見が続いている。でも誰も、その水素がどこから来ているかについては触れていない。

翌朝の新聞には、こんな記事があった。「アジア太平洋地域の天然ガス・石炭由来水素が需要急増で生産量最高に」「中東諸国、日本向け水素供給網を拡張」「NGO、水素サプライチェーン全体のCO2排出に対する透明性を要求」「CCUS商用化、2035年に再延期—かつて褐炭由来水素実証を担った豪州計画も経済性の壁で停滞」

僕は記事を読みながら、ふと思い出した。2020年代に「電気自動車はゼロエミッション」と宣伝されていたことを。でも電力が火力発電由来なら、結局どこかでCO2は出ていた。

今、僕たちは同じことを繰り返しているのではないか。しかも、CCUSという解決策があったのに、経済性を理由に諦めてしまった。

午後、久しぶりに研究室を訪ねた。後輩の山田が水素燃焼の最適化に取り組んでいる。

「先輩、すごいですよね。世界中の発電所が僕たちの技術を使ってるんですから」

「山田君、その水素がどこから来てるか知ってる?」

「グリーン水素の比率はまだ3割程度ですが、これから増えていくはずです」

「『はず』じゃダメなんだ。今この瞬間も、水素製造で大量のCO2が出てる。しかも、本来ならCCUSでそのCO2を処理するはずだったのに、コストを理由に諦めた」

山田は困惑した顔をした。「でも、発電効率は格段に向上してますし...会社としては大成功ですよね?」

「会社として成功と、地球のために成功は違うんだよ」

机の上に置かれた報告書を見ると、「CCUS事業検討結果:商用化困難」と書かれている。2020年代後半に大きな期待を集めた技術が、経済性の壁に阻まれて諦められたことを示している。

僕は窓の外を見た。瀬戸内海の向こうに、水素タンカーが見える。あの船には、遠い国で化石燃料から作られた水素が積まれている。

「効率の問題じゃないんだ。僕たちは問題を移転しただけかもしれない。それに、CCUSとセットで考えていれば、本当のゼロエミッションができたかもしれないのに」

帰り道、駅前で環境活動家がビラを配っていた。「真のカーボンニュートラルを」というスローガンが書かれている。

「水素発電の嘘に気づいてください」と書かれた一枚を受け取った。そこには、世界の水素製造に伴うCO2排出量の推移が示されていた。右肩上がりのグラフが続いている。そして欄外に小さく「CCUS商用化遅れで抜本的解決困難」と書かれていた。

電車の中で、僕は考えた。技術者として、僕たちは最高の技術を作り上げた。でもその技術が本当に地球のためになっているのかどうか。そして、もう一つの解決策を経済性を理由に諦めてしまったことについて。

車窓に映る自分の顔を見つめながら、こんな疑問が浮かんだ。

技術的成功と経済的現実。そして、地球の未来。どこでバランスを取るべきだったのだろう。


この作品はフィクションです。

実在の人物、企業、団体、事件、場所の名称等が登場しますが、これらは創作上の演出であり、実際の人物、企業、団体の活動、方針、業績、将来性等について言及・評価・予測するものではありません。作品中の出来事、人物の言動、企業活動の描写は全て作者の想像によるものであり、実在の人物、企業、団体とは一切関係がありません。

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