見出し画像

残酷の非対称性 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

「今日からこの成果を実装します」

ジョンソン教授はそう宣言し、満場の拍手を浴びた。ホログラム上に投影された彼の顔は、誇らしげでありながらどこか不安も感じられた。会場のスクリーンには、脳波パターンの複雑なグラフと、それを解読したデータが映し出されている。彼の額には細かい汗が浮かんでいた。

「これまで人類は、自分たちが地球上で特別な存在だと考えてきました。しかし、私たちの研究によって、実はすべての生物が『死の認識』と『残酷性の感覚』を持っていることがわかったのです」

出席した政府高官や研究者たちは、まだ半信半疑の表情だった。中央の列に座っていた私は、取材用のメモを取るのを忘れていた。手元のペンが止まったまま。

「すべての生物が……死を認識している?」記者席から誰かが声を上げた。奥の方の男性だった。

「はい」ジョンソンは頷いた。首の筋肉が緊張で硬くなっている。「あらゆる生物は、自分が『食べられる』という概念を持っています。驚くべきことに、彼らはそれを私たち人間が想像するよりもずっと『淡々と』受け入れているのです」

会場が騒がしくなった。椅子がきしむ音、小さなささやき声、頭を振る音。

「例えば、牛や豚、魚、昆虫に至るまで、彼らは食物連鎖の中で自分の位置を明確に認識しています。彼らにとって、捕食されることは『残酷』ではなく、単なる『事実』なのです」

隣に座っていた私の同僚が小声で言った。彼のネクタイが少し曲がっていた。「ジョンソンの研究チームが開発した生体信号変換装置は、動物の脳波パターンを人間の感情に変換できるんだ。あらゆる生き物の『気持ち』が、初めて科学的に解明されたってわけさ」

研究発表から一週間後、その技術はグローバルネットワークに接続されたすべての装置に実装された。冷蔵庫、スマートウォッチ、公共交通機関のディスプレイ、あらゆるものが、私たちに「真実」を教えるようになった。どれも少し冷ややかな青い光を放っていた。

朝、冷蔵庫を開けると、中の食材からのメッセージが表示される。狭いキッチンに青白い光が広がる。

「この豚肉は、死の瞬間に0.03%の恐怖を感じました(人間基準)」

「この野菜は収穫時に痛みを感じましたが、あなたに食べられることを受け入れています」

私は朝食を抜くようになった。胃が鳴るのを無視しながら。

会社の食堂では、各テーブルに「食材感情表示モニター」が設置された。同僚たちは黙々と食事をするか、モニターの電源を切ってしまうかのどちらかだった。誰も話さない。フォークとナイフの音だけが響く。

「これ、気持ち悪くない?」と私が聞くと、向かいに座った同僚は肩をすくめた。彼の目は少し虚ろだった。

「俺たち人間も、いつか誰かに食われるんだろうね。虫とか、微生物とか」

その夜、帰宅途中の電車の中で、ふと窓の外を見た。満月だった。白く大きな月が、建物の間から見え隠れしている。すると、腕のスマートウォッチが震え、メッセージを表示した。

「あなたは食物連鎖の一部です。あなたの死後、あなたの体は地球上の他の生命体に養分を与えます。あなたの恐怖指数:76.2%(平均的な牛の25倍)」

その瞬間、私は理解した。手のひらに冷たい汗が浮かぶのを感じながら。私たちが「残酷」と呼んでいるものは、単なる人間の幻想だったのかもしれないと。そして同時に、私たち人間こそが、食べられることを最も恐れている生き物だということを。

三か月後、世界中の自殺率が急上昇した。人々は、自分たちが食物連鎖の頂点にいるという幻想から目覚め、実は単なる中間消費者に過ぎなかったという事実を受け入れられなかったのだ。

ジョンソン教授はもう講演をしていない。彼は自宅の庭で野菜を育て、必要最低限の食事だけを取るようになった。日に焼けた顔には深いしわが刻まれていた。最後に会ったとき、彼はこう言った。

「私たちは残酷さを理解していなかった」静かな声で、彼は土まみれの手を見つめながら言った。「動物たちは死を受け入れているのに、私たちはそれを恐れ、残酷だと思っていた。本当に残酷なのは、知っているのに目を背けることだったんだ」

今日、私の冷蔵庫はほとんど空っぽだ。開けると、薄暗い電球の下で、唯一残ったリンゴからメッセージが表示された。

「私はあなたに食べられるために存在しています。恐怖指数:0%」

私はそのリンゴを手に取り、一口かじった。甘かった。少し酸味があって懐かしい味。そして初めて、自分も誰かの糧になるという事実を、恐れずに受け入れることができた気がした。今は古い歌を聴きながら、窓の外の空を見つめている。

#創作大賞2025 #お仕事小説部門 #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

いいなと思ったら応援しよう!

國分裕之 あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。