バイオマスの幻想 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
佐藤は研究室の窓辺に立ち、眼鏡を外してこすった。またあの頭痛だ。2035年の東京は、彼が子供の頃に見た景色からは想像もできないほど変わっていた。空は茶色く濁り、かつて青々としていた西の山々は、今や禿げ山となって横たわっている。
ふと目を閉じると、八歳の夏、父に連れられて登った高尾山が思い浮かんだ。木漏れ日が頬を撫で、沢の水が冷たかった。水筒のお茶の味。カブトムシを見つけた時の小さな歓声。
「先生、これを見てください」
執着気味な声に現実に引き戻される。助手の田中が、スマートデバイスを差し出していた。『最後の天然林をエネルギー供給源へ:カーボンニュートラル達成の切り札』という見出しが、まるで彼を嘲笑うように輝いていた。
「連中は何も理解していない」佐藤は呟いた。歯の隙間から漏れ出した言葉は、彼自身への非難でもあった。
タブレットをスクロールすると、自分の若い頃の写真が現れた。2020年、バイオマスエネルギーの理論的基礎を確立したノーベル賞候補の科学者として。記事では彼の理論を「21世紀の環境革命」と讃えていた。
「すべてが私の過ちだ」
「先生、そんなことは…」
「否定するな!」いつもは穏やかな佐藤が珍しく声を荒げた。「私の理論はここまで歪められるものではなかった」
十七年前、佐藤はバイオマス燃料のカーボンニュートラル理論の提唱者として脚光を浴びた。植物が成長過程で吸収したCO₂と、燃焼時に放出するCO₂が相殺されるという考え方は、気候変動に苦しむ世界に希望を与えた。しかし…。
彼は椅子に座り込んだ。研究室の床はいつになく冷たく感じた。
「先生」田中が懸念を滲ませた声で言った。「お水を持ってきましょうか?」
「いらない」佐藤は目を閉じていた。「私の理論には重大な欠陥があった。いや、欠陥というより、私が人間の欲望と近視眼的な政策を甘く見ていたんだ」
彼はデスクの引き出しから古ぼけた写真を取り出した。研究チームの集合写真。今や何人かはバイオマス産業の重役になっている。
「理論的にはカーボンニュートラルだ」佐藤は写真を見つめながら続けた。「だが、木が二酸化炭素を吸収するのに何十年もかかるのに、それを燃やすのは一瞬。時間軸を無視した愚かな解釈だ」
コーヒーの蒸気が立ち上る。田中がいつの間にか入れてくれたのだろう。
「先生は当初から警告していましたよね?」田中は慰めるように言った。「バイオマスは集約的に利用しすぎてはならないと」
「警告は十分ではなかった」佐藤は苦い微笑みを浮かべた。「私は名声に酔っていた。企業からの研究費、講演依頼、メディアの注目…」
彼はコーヒーに口をつけた。昔、妻のみどりが入れてくれたコーヒーの味が懐かしい。彼女は三年前、過労で倒れた佐藤を看病している最中に亡くなった。皮肉なことに彼女が好きだった裏山も、今ではバイオマス開発のために伐採されている。
「各国政府はバイオマスをクリーンエネルギーとして大々的に認定した」佐藤は続けた。「企業は競って発電所を建設し、天然林は『効率が悪い』として伐採され、成長の速い単一樹種のプランテーションに置き換えられた」
田中の表情が曇った。彼女の故郷である北海道の森も、同様の運命をたどったのだろう。
「生物多様性は?」佐藤は重い舌で問うた。「土壌の浸食は?水源は?野生動物の生息地は?」
彼はデスクに突っ伏した。五十九歳の体は、若い頃のような回復力を失っていた。特に心の疲れは。
「先生、これも見てください」田中は別の記事を指さした。「世界バイオマス産業連合の会長の発言です」
「持続可能性?」佐藤は嘲笑した。「彼らにとっては利益の持続性だけだ」
デスクの上の写真立てには、五年前のノーベル物理学賞授賞式での一枚が飾られていた。あの時は世界が彼の功績を称えた。カーボンニュートラルという概念を広めた功労者として。
「皮肉なものだ」佐藤は言った。「バイオマス燃料のために森林が消失し、生物多様性は崩壊した。気候変動は加速している。森林伐採で地球の熱バランスは崩れ、異常気象は頻発する。それでもなお、数字上は『カーボンニュートラル』だという」
田中は黙って聞いていた。窓の外ではバイオマス発電所の煙突から煙が立ち上っていた。
「私はね、田中さん」佐藤は珍しく助手の目を直接見た。「子供の頃、高尾山で見た大ぶりのカブトムシを覚えている。神社の裏の樹液に集まっていたんだ。その森は今、どうなっていると思う?」
田中は答えられなかった。
「工業的なバイオマス生産は結局、従来の化石燃料と同じ構図だ」佐藤は指で机を叩きながら言った。「大規模、集中型、効率最優先。自然のバランスを無視している」
彼はふらつく足取りで立ち上がり、デスクから一枚の紙を取り出した。そこには彼の最新論文のタイトルが記されていた。
『カーボンニュートラルの神話:数値だけでは地球は救えない』
「発表したら、業界から袋叩きにあいますよ」と田中は心配そうに言った。「助成金も打ち切られるかも」
「それでも真実は伝えなければならない」佐藤は小さな声で、しかし決意を込めて言った。「私の残りの人生が、せめてこの過ちの埋め合わせになれば」
「先生…」
「私は何を遺すのだろう」佐藤は窓の外を見た。かつてのシンボルだった富士山も、今や頂上付近の森林が伐採され、禿げた姿をさらしていた。「みどりに最後まで見せられなかった。何も解決できなかった」
夕陽に照らされたバイオマス発電所の煙が赤く染まっていた。まるで燃える森のように。
「カーボンニュートラルと測定されていても、地球は死にゆくんだ」
佐藤の言葉は、誰にも届かない空気中に消えていった。しかし田中の胸には確かに響いた。彼女はそっと自分のデバイスを取り出し、ある環境活動家グループにメッセージを送った。
「佐藤教授の新論文、手伝います。公開の準備を」
窓の外では、バイオマス発電所のタービンの音が変わらぬリズムで響いていた。しかし、何かが変わり始めていた。佐藤は感じていた。自分の人生の最後の章が、今始まろうとしているのを。
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