二つの湯 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
空の青さが突き刺さるような秋晴れの日、私は生まれて初めて「特別天然温泉許可証」を手に入れた。
2065年、日本で公共入浴施設が「基本的人権」として法的に位置づけられて10年が経っていた。どんな地域に住む人でも、週に一度は何らかの共同入浴施設を利用する権利が保証されている。そのため、街には「公共浴場」と呼ばれる人工温浴施設が整備されていた。そこでは温度管理された人工温泉が無料で提供され、週に一度のコミュニティミーティングも同時に行われる。
しかし、温度も成分も安定した人工温泉とは異なり、天然温泉の利用は年々難しくなっていた。
「どうやって手に入れたの?」と妻の由美が驚いた顔で尋ねた。
「去年から貯めていた炭素クレジットと、森林ボランティア300時間分のポイントを使ったんだ」
振り返れば、毎週末の植林活動は骨が折れる作業だった。だが、そのおかげで、由美と二人分の「特別天然温泉許可証」を手に入れることができた。この許可証があれば、日本のどこかにある天然温泉に年に一度だけ、実際に入ることができる。
明日、私たちは新幹線を使って群馬県の山奥へ向かう。炭素クレジットを大量に消費する旅行だが、年に一度の贅沢だ。
翌朝、宿の老女将が私たちを迎えた。宿は築200年を超える古民家で、その佇まいは昔のままだった。
「お二人さん、特別なお客様ね」と女将は目を細めた。「では、入浴の前にまず説明を」
彼女は古い木製のテーブルに、「温泉利用の心得」と書かれた紙を広げた。
「現在、この山には年間200人しか温泉に入れません。これは源泉の持続可能な湧出量と、周辺環境への影響を考慮した人数です」
女将の説明によれば、天然温泉は今や単なる観光資源ではなく、「生きた地球の遺産」として保護されている。温泉に入るということは、地球の貴重な資源を一時的に借りるという意味なのだ。
「お二人の温泉利用は、この山の木を三本植えることと同等の環境負荷があります。明日、帰りの前に植樹式を行いますので、ぜひ参加してください」
女将は最後にこう付け加えた。「ちなみに、今夜は特別なゲストがいらっしゃいます。北欧から来られた方です」
夕食後、露天風呂への道を歩いていると、背の高い外国人男性とすれ違った。彼はフィンランド語らしき言葉で私たちに挨拶をした。
「彼はマッティさん」と女将が説明した。「フィンランドの伝統サウナの管理人です。『世界入浴文化交換プログラム』の一環で、日本の温泉を体験しに来ているんですよ」
翌朝の朝食で、マッティは流暢な日本語で話しかけてきた。
「昨日の温泉は素晴らしかった。フィンランドのサウナとは全く違う体験です」
彼によれば、フィンランドでも天然の森と湖に囲まれた伝統的サウナの利用は厳しく制限されているという。特に薪を使うサウナは、カーボンオフセット証明がなければ利用できない。
「でも、その希少さが価値を生むんです」と彼は言った。「昔はどの家にもサウナがありましたが、今では特別な日にだけ使うものになりました。だからこそ、一回一回の体験が貴重なんです」
彼の言葉に、私は少し考え込んだ。
「私の祖父は、昔は毎週末に温泉旅行に行っていたと言っていました。信じられないですね」
マッティは微笑んだ。「僕の祖父も同じことを言います。でも、彼らの時代は、こうした贅沢の本当の価値を知らなかったのかもしれません」
帰りの新幹線の中で、バーチャル温泉体験用のデバイスを手に取った。これなら、炭素排出を気にせず毎日でも「温泉気分」を味わえる。しかし、昨日の体験と比べると、何かが決定的に違う。
「本物の価値って何だろう」と由美に言った。
「限られているからこそ、大切にできるのかも」と彼女は答えた。
私はふと思い出した。祖父が亡くなる前、最後に言った言葉を。
「お前らの時代は、色々と不便になるだろう。だが、その不便さが、物事の本当の価値を教えてくれる」
窓の外の景色が流れていく。私たちが植えてきた三本の木は、100年後も山に残るだろう。そして、おそらく私の孫の世代も、年に一度だけ特別な温泉体験を求めて、この山を訪れるのかもしれない。
彼らもきっと、この贅沢の価値を知るだろう。それは単なる入浴ではなく、地球という存在との一時的な融合なのだから。
そして多分、祖父の時代のように「毎週温泉」という贅沢ができた今の私たちが、歴史上もっとも恵まれた世代なのかもしれない。その幸せを、私たちはどれだけ自覚しているだろうか。
新幹線は山を離れ、都会へと戻っていった。来週は地域の公共浴場で森林ボランティアの仲間と会う約束がある。人工的な湯ではあるけれど、一緒に入る仲間がいる。それはそれで、違う形の贅沢なのだろう。
年に一度の天然温泉と、週に一度の公共浴場。二つの「湯」が、これからの私たちの生活を形作っていくのだ。
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