霧島の緑 ─ 地球を醸す 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
台風が過ぎ去った2035年8月の朝。空気が妙に澄んでいた。吉田は実験栽培所の3階、かつて父が使っていた部屋の窓から畑を見下ろした。去年亡くなった父親の思い出がちらついて、一瞬だけ心が痛んだ。とにかく、本当に今日は暑い。冷房が28度設定なのに。
十年ぶりの帰郷は奇妙な気分だった。海外の大学へ出て以来、ここに戻るつもりはなかったのに。
窓の下、古い道沿いに「カーボン・ポジティブ」の腕章をした地元の農家たちが集まっている。光合成効率が増強された芋の畑は、異様なほど緑が濃く、まるで人工的な輝きを放っているようにさえ見えた。
「所長、来ましたよ」
振り返ると、知らない女性が立っていた。ああ、新しい助手の——名前を思い出せない。彼女は少し歪んだ緑色のボトルを持っていた。光に透かすと中の液体が不思議に光る。霧島酒造の「緑の霧島」と彼らが名付けたプロトタイプだ。
「サンプルだけでもう300万円ですよ。研究費がまた削られるかも」と彼女は笑った。「でも、見てください。完全に—」
「焼酎というより藻みたいだな」吉田は言葉を遮った。黄緑色の液体は、父が研究していた微細藻類を思い出させた。
「この焼酎は通常の10倍の二酸化炭素を固定しています。芋の栽培から蒸留まで、全工程でカーボンマイナス。ボトル一本飲むごとに、およそ2kgのCO2削減になる計算です」
吉田はそっとボトルを傾けた。液体の中には金色の粒子が漂っている。ナノ炭素だ。焼酎造りで固定された炭素が結晶化したものらしい。
「披露パーティーは今夜?」
「はい、7時から。知事も農水大臣も来ますよ。議員さんたちも何人か」
この会社が最初に焼酎粕リサイクルプラントを作ったのは2010年頃だった気がする。当時は単なる廃棄物処理だった。それがなぜか今や脱炭素の最先端技術として注目される存在になっていた。皮肉なものだ。父は酒が飲めなかったのに。
パーティー会場は旧蒸留所を改装していた。古い銅製の釜がそのまま展示され、周りを最新のバイオ機器が取り囲む。奇妙だ。鹿児島弁のざわめきと機械音が混ざる。会場の隅には、新しい蒸留器のミニチュアが並んでいた。ラベルには「呼吸固定装置」と書かれている。これで何をするのかはわからなかった。
マイクの音が鳴り、司会者が吉田を紹介した。心の準備ができていなかった。スピーチの原稿も持っていない。
「こんばんは...」彼は足を引きずるように壇上に向かった。昔ながらの畳敷きの一部が残っている。膝が痛い。「父の後を継いで研究所に戻ってから、まだ一ヶ月です」
会場の中をぐるりと見回した。地元の顔なじみ、知事、それにスーツの人たち。笑顔の中に、怪訝な顔もある。
「『緑の霧島』は...ただの商品じゃない」言葉が途切れる。「これは...私たちの...」
なぜここで話しているのだろう。十年前、環境問題なんて眉唾だと言って父と喧嘩して家を出たのに。ふいに頭に浮かんだのは、中学の時に見た霧島の朝霧。父に連れられて山に登り、雲海の上に出たときの光景だった。なぜ今そんなことを思い出すのか。
「すみません。...とにかく乾杯しましょう」
彼はボトルを掲げた。一瞬、手が震えた。「この一杯で、地球が少しだけ...楽になる」
かちゃりとグラスが鳴る。一口飲んだとき、意外な味に驚いた。確かに芋焼酎だが、微かに森の香りがする。それは子供の頃、祖父と山に入ったときの記憶を呼び覚ました。
「土臭くないですか?」誰かが言った。
「いや、森を飲んでるみたいだ」別の声。
会場の窓の外では、小さな蒸留器がテーブルに配られていた。自分の呼気を吹き込むと、二酸化炭素が緑色の液体に変わる様子が見える。ただの見世物だが、人々は食いついていた。
「所長」知らない男が近づいてきた。「欧州からすでにオファーが来ています。来年はEUに展開することも」
「そうか」吉田は言った。「でも一つ条件がある。この技術は共有する。特許は取るが、誰でも使えるようにしてほしい」
男は驚いたような顔をした。「でも10年の歳月と莫大な投資が...」
「父はそう望んだだろう」吉田は言い切った。自分でも意外だった。「それに...気候危機との戦いに、儲けを考えてる場合じゃない」
言いながら、自分が父と同じことを言っていることに気づいた。あの時、笑った自分が恥ずかしい。
突然、会場の明かりが落ちた。停電か?しかし他の電気は正常だった。
「所長、外を見てください!」
窓の外を見ると、山の方から淡い緑色の霧が湧き上がっていた。それは光を集め、ゆっくりと空へ上昇している。
「あれは...」吉田は言葉を失った。「父の...」
彼は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。緑の光が反射して、まるで別人のようだった。
それは帰ってきた理由なのかもしれない。あるいは、これから進む道のしるべなのか。
確かなことは一つだけ。この緑の霧が、何かの始まりだということ。
「これで本当に地球は救われるのだろうか」と、吉田は小さくつぶやいた。返事はなかった。
#創作大賞2025 #脱炭素 #カーボンニュートラル #お仕事小説部門 #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集 #創作記録
いいなと思ったら応援しよう!
あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。