飽食の終焉 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
久野俊一は朝の8時53分、いつものように押上駅から出社していた。スカイツリーの影がまだ残る3月の空気は、妙に乾燥している。
「先月の売上報告です」
部下の田中が差し出した資料を見て、久野は首をかしげた。同社の主力商品である食欲抑制サプリの売上が、前年同月比で78%も減少していた。GLP-1関連の医薬品事業も似たような状況だ。
「何かの間違いじゃないのか?」
田中は困ったような表情を浮かべた。「それが...実はここ3ヶ月、ずっとこんな感じなんです」
久野が入社した15年前、ダイエット関連市場は右肩上がりだった。痩身エステ、サプリメント、フィットネスジム。2020年代後半には市場規模が2兆円を超え、特にGLP-1受容体作動薬の登場で業界は活況を呈していた。誰もが「痩せたい」と願い、そのために喜んでお金を使った時代。それがつい最近まで続いていたはずなのに。
昼食時、いつものコンビニに立ち寄ると、棚がスカスカだった。
「すみません、おにぎりの入荷予定は?」
レジの店員は申し訳なさそうに首を振った。「今日の分は午前中に完売でして...明日の朝一番に来ていただければ」
帰り道、ふと気づいた。電車内の中吊り広告から、ダイエット関連の宣伝が消えていた。代わりに目立つのは「節約レシピ」「家庭菜園のすすめ」「食料保存術」といった文字。まるで戦時中の標語のようだった。
2034年5月。政府から正式な発表があった。
「食糧配給制度の導入について」
テレビの画面に映るスーツ姿の官房長官は、淡々と説明を続けた。世界的な気候変動、ウクライナ・中東情勢の長期化、東南アジアでの連続した異常気象。食料輸入の8割を海外に依存していた日本は、ついに配給制に踏み切らざるを得なくなった。
久野の会社は6月に倒産した。
ダイエット業界そのものが、一夜にして消失したのだ。食べ物が配給制になれば、痩せようと思う人はいない。むしろ、わずかな配給食料をいかに効率よく体内に蓄積するかが生死を分ける問題になった。
解雇通知を受け取った日の夜、久野は妻と二人で最後に残った缶詰を分け合った。
「15年間、人を痩せさせることばっかり考えてきたなんて、おかしな話だよな」
妻は苦笑いした。「でも、みんなそれを求めてたじゃない」
「そうだけど...」
久野は缶詰のスプーンを止めた。中身はコーンの缶詰だったが、以前なら「糖質が多いから」と避けていたはずの食品。今はこの甘さが、何よりも贅沢に感じられた。
2034年秋。街の様相は一変していた。
痩身エステは閉店し、フィットネスジムは食糧配給所に転用された。以前「体重3桁は人として終わってる」と言って憚らなかった同僚の佐藤は、今では94キロまで体重を落とし、「もう少し太らないと冬が越せない」と嘆いている。
驚いたのは価値観の逆転だった。
ふくよかな体型の人が羨ましがられ、「備蓄体質」などという新しい言葉まで生まれた。昔なら医師に「痩せなさい」と言われたような体型の人が、今度は「健康的で理想的」とされるようになった。
久野は新しい仕事を見つけた。食糧配給所での栄養指導員。皮肉なことに、以前ダイエット指導で身につけた栄養学の知識が、今度は「いかに効率よく栄養を摂取するか」の指導に役立っている。
「少ない食材でも、組み合わせ次第で必要な栄養は摂れるんです」
配給所に集まった人々に向かって久野は説明する。聞いている人たちの表情は真剣だった。以前のダイエットセミナーとは違い、命に関わる話だから。
しかし時々、複雑な気持ちになる。
2020年代後半まで、日本では年間約570万トンの食品ロスが発生していた。コンビニの廃棄弁当、家庭での食べ残し、賞味期限を過ぎただけで捨てられる食品。久野自身も、ダイエットのために食事を抜いたり、「カロリーが高い」という理由で食べ物を残したりしていた。
あの頃捨てていた食べ物があれば、今どれだけの人が救われただろう。
配給所の帰り道、久野は昔よく通った回転寿司店の前を通った。閉店から半年、シャッターには落書きと古いポスターが残っている。「糖質オフメニュー始めました」という文字が、妙に切なく見えた。
2035年の春、久野の体重は78キロになっていた。入社当時より12キロ増。昔なら即座にダイエットを始めていた数字だが、今は「まだまだ足りない」と感じている。
妻は最近、近所の人から「旦那さん、恰幅がよくて立派ね」と褒められたという。以前なら屈辱的だった言葉が、今は最高の褒め言葉になっている。
ある日、配給所で偶然、昔の同僚に会った。GLP-1関連の営業をしていた山田だった。彼は見る影もなく痩せていて、一瞬誰だか分からなかった。
「久野さん、お疲れさまです」
「山田...君か。元気にしてた?」
山田は苦笑いを浮かべた。「今、農業研修を受けてるんです。将来は農家になろうかと」
「そうか...」
「考えてみたら、僕らが売ってた薬って、お客さんに『食べたくない』って思わせる薬だったじゃないですか。今思うと、なんだったんでしょうね」
久野は答えに詰まった。確かにその通りだった。食欲を抑制し、満腹感を持続させ、人々が食べることへの欲求を減らす。それが彼らの仕事だった。
「でも、みんなが求めてたことでしょ?」
「そうですけど...結局、僕らは何を売ってたんでしょうか」
帰宅後、久野は古いアルバムを開いた。2029年の忘年会の写真。ダイエット関連商品の大ヒットを祝って乾杯している同僚たち。みんな痩せていて、自信に満ちた表情をしている。
今となっては、別世界の出来事のようだった。
窓の外では、小学生たちが「大きくなれ、大きくなれ」と植物に向かって歌っている。昔なら「小さく小さく」と願っていた時代の人間には、この光景が不思議に映る。
久野は手帳を開き、明日の栄養指導の準備を始めた。「限られた食材で最大の栄養を」。これが今の彼の使命だった。
机の引き出しの奥に、古いダイエットサプリのサンプルが一つ残っていた。「食欲抑制・満腹感持続」という文字が虚しく見える。久野はそっとそれを引き出しの一番奥にしまった。
もう二度と、そんなものは必要ない世界になったのだから。
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