玄米の証明書 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
倉庫の奥、埃をかぶったコンテナの山の向こうに、それはあった。
田中は懐中電灯の光をゆっくりと動かした。30キロ入りの米袋が50個ほど、きちんと積み上げられている。ラベルには「2027年産 政府備蓄米 茨城コシヒカリ」と印字されている。何も問題ないように見えた。しかし、袋に貼られているべき緑色のシールがない。
「カーボン削減証明書」がない。
田中は県農協の備蓄米管理課で働いて15年になる。2031年4月に施行された「農産物カーボンニュートラル法」により、全ての米には土壌炭素固定量、メタン削減率、輸送時CO2排出量を記載した証明書の添付が義務付けられた。証明書なしの米は流通も保管も禁止。発見次第、「環境適合性バイオマス燃料化処理」——つまり焼却処分することになっている。
田中はため息をついた。また処分書類を書かなければならない。しかもその処理で排出されるCO2は「制度運用に伴う必要経費」として、国のカーボンニュートラル計算からは除外される。最近はこんな「違法米」の発見が多い。制度移行期の混乱で、書類が追いついていないのだ。皮肉な話だと思う。
携帯電話が鳴った。「はい、田中です」
「お疲れさまです。農業カーボン認証局の佐藤です。明日の午後、そちらに検査に伺います」
田中は固まった。抜き打ち検査だ。この旧備蓄米が見つかれば、農協に厳しい処分が下される。
翌日、佐藤は予定より早く到着した。30代前半の痩せた男性で、タブレットを片手に倉庫内を歩き回る。
「こちらの管理状況は良好ですね」佐藤は満足そうに言った。「では、奥の倉庫も確認させてください」
田中の心臓が跳ね上がった。「あ、あちらは古い機材置き場で...」
そのとき、外から声がした。「田中くん、いるかい?」
山田おじいさんだった。78歳になる地元の米農家で、農協設立当初からの組合員だ。
「山田さん、今ちょっと忙しくて...」田中は慌てた。
「おや、お役人さんかい?」山田は佐藤を見て言った。「ちょうどよかった。あんたらに聞きたいことがあったんだ」
佐藤は丁寧に応対した。「農業カーボン認証局の佐藤と申します。何かご質問が?」
「あの証明書の話だよ。うちの米は炭素をたくさん吸うって息子に言われたんだが、よくわからん」
山田は田中を見た。「そういえば田中くん、2027年に試験的に作った米があったろう?あれはまだここにあるのかい?」
田中の顔が青ざめた。佐藤が興味深そうに振り返る。
「試験米というのは?」
「ああ、あれは特別だったんだ」山田は嬉しそうに話し始めた。「農水省の研究員さんがね、新しい農法を試させてくれって言うんで。化学肥料も農薬も一切使わず、特殊な菌を土に入れて、牛の糞尿も発酵させて...なんだっけ、カーボンなんとかって言ってたな」
「カーボンファーミングですね」佐藤の目が光った。「それは貴重なデータになります。どちらに保管されていますか?」
田中は必死に手を振ったが、山田は気づかない。
「あそこの奥だよ。田中くん、案内してやってくれ」
コンテナの前で、佐藤はタブレットに何かを打ち込んでいた。
「これは面白い。2027年といえば、まだ証明書制度導入前ですね。当時の研究データはありますか?」
田中は震え声で答えた。「え、ええと...」
山田が口を挟んだ。「研究員さんが定期的に土を調べに来てたよ。土の中の炭素が普通の田んぼの3倍になったって喜んでた。牛のゲップも出ないような特別な餌を食わせて」
佐藤は驚いた顔をした。「土壌炭素固定量が3倍?現在の認証基準では最高ランクでも1.5倍程度ですが...」
「そうそう、メタンがほとんど出ない品種だって言ってた。普通の稲の10分の1だか20分の1だか」
佐藤のタブレットがピコピコと音を立てた。「もしそれが本当なら、現在流通している認証米の中で最高レベルのカーボン削減効果です。なぜ証明書を取得しなかったんですか?」
田中は口ごもった。「その...制度ができる前の米で...」
「でも実質的にはカーボンニュートラル基準を大幅に上回っているということですね」佐藤は考え込んだ。「これは本省に報告する必要があります」
山田が不安そうに言った。「何か問題があるのかい?」
「いえ、むしろ逆です」佐藤は興奮していた。「この米は、もしかすると日本で最も環境に優しい米かもしれません」
その夜、田中は一人で倉庫にいた。佐藤は「明日詳しい調査チームを派遣する」と言って帰った。
袋から玄米を一握り取り出す。見た目は普通の米と変わらない。しかし、これが本当に土壌に大量の炭素を固定し、メタンの排出も抑制した「幻の米」だとしたら。
田中の携帯が鳴った。父親からの古いメールが残っていた。亡くなる前の年、2025年に送られたものだ。
「田中、お前の仕事は大事だ。米は人の命を支えるものだから。でも、書類や制度だけじゃ米の本当の価値はわからない。土と一緒に生きてきた人間の感覚も大切にしろ」
田中は米を手のひらで転がした。証明書がなくても、この米は確実に地球の炭素を減らしていた。制度ができる前から。
しかし、それを証明するためには、膨大な検査と手続きが必要になる。費用も時間もかかる。そして、おそらく最終的には「前例がない」という理由で却下されるだろう。
田中は小さなプラスチック容器に玄米を入れた。持ち帰って、少しずつ炊いて食べよう。これが最後の、証明書のない米になるかもしれない。
倉庫の電気を消す前に、もう一度米袋を見つめた。緑色のシールがないだけで、これは「違法米」になってしまう。そして明日、日本で最も環境に優しいかもしれないこの米が、「環境適合性バイオマス燃料化処理」という名の焼却炉で燃やされ、大量のCO2を排出する。
「脱炭素のために米を燃やす時代か」田中は苦笑いした。
月明かりが倉庫の窓から差し込み、古い米袋を静かに照らしていた。
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