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石炭の継承者 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

田村が実験棟から出ると、瀬戸内海の夕日が石炭ガス化炉の煙突を赤く染めていた。2029年の秋、大崎上島はいつもと変わらない静寂に包まれている。しかし、彼の心は穏やかではなかった。

ポケットの中で、中国からの契約書がかさかさと音を立てる。北京にある国有エネルギー企業からのオファー。年収は現在の3倍、研究費は実質無制限。石炭ガス化技術の商業化プロジェクトのリーダーとして迎えたいという。

「お疲れさまです」

振り返ると、同僚の佐藤が疲れた顔で近づいてきた。彼も40代後半、大崎クールジェンプロジェクトの初期から関わってきた古参だ。

「佐藤さんも、例の話...」

「ああ、きてるよ」佐藤は苦笑いを浮かべた。「うちの技術者の半分は声をかけられてるんじゃないか。田村さんのところはどう?」

田村は答えに困った。家族会議は昨夜、大荒れだった。妻の美香は猛反対している。「なんで中国なの?日本の技術を売り渡すようなもんじゃない」と言って。

一方で、高校3年の娘・咲希は意外にも賛成だった。「お父さんの技術で中国の石炭がクリーンになれば、CO2削減になるでしょ?地球のためじゃん」

「複雑だよ」田村はつぶやいた。

佐藤が煙草に火をつける。禁煙したはずなのに、最近また吸い始めた。「俺の親父は筑豊の炭鉱夫だった。石炭に人生を捧げて、最後は肺を悪くして死んだ。俺は石炭をクリーンにする技術者になった。息子は『石炭なんて時代遅れ』って言って、再エネの会社に就職した」

煙が夕闇に溶けていく。

「三代で、石炭に対する想いが全部違うんだよな」

田村の祖父も炭鉱関係の仕事をしていた。父は石炭火力発電所のエンジニア。そして自分は石炭をクリーンにする技術を研究している。まさに石炭三代だ。

「でもさ、田村」佐藤が煙草を投げ捨てた。「俺たちの技術、このまま日本で埋もれさせていいのか?来年から国内の石炭火力は次々と廃止される。あと5年もすれば、俺たちの居場所はなくなる」

それは事実だった。政府の脱炭素政策により、石炭火力発電は段階的に廃止される予定だ。大崎クールジェンの技術は完成したが、肝心の適用先が日本にはもうない。

「中国は違う。石炭火力を年間200基も新設してる。俺たちの技術があれば、CO2を3割削減できる。計算してみろよ、年間何億トンの削減になると思う?」

田村は知っていた。確かに中国で自分たちの技術が使われれば、日本の年間排出量を上回るCO2削減効果がある。

「でも...」

「でも何だ?愛国心か?」佐藤の声が少しとげとげしくなった。「俺たちの税金で開発した技術を、日本が使わないって言ってるんだぞ。中国が正当な対価を払って買いたいって言ってる。何が悪い?」

田村は黙り込んだ。理屈では佐藤が正しい。しかし、心のどこかで引っかかるものがある。

研究棟の明かりが一つ一つ消えていく。残業する研究者も減った。来年度の予算削減で、プロジェクトは大幅縮小される予定だ。

「俺は行くよ」佐藤が言った。「来月、北京に飛ぶ。家族も一緒に」

「奥さんは納得したんですか?」

「最初は反対してた。でも、息子の大学費用を考えたら...。それに、向こうの研究環境は日本の10倍充実してるって聞いた」

その夜、田村は一人で研究室に残った。10年間毎日見続けてきたガス化炉のデータを眺める。効率改善のグラフ、CO2分離回収率の推移、燃料電池との連携システムの完成度。

全てが完璧に近い数値を示している。

携帯が鳴った。中国側の担当者からだった。

「田村さん、いかがでしょう?ご決断の時期が...」

「もう少し時間を」

「来週までにお返事いただければ。実は、韓国のKEPCOからも同様の技術者を探していると連絡がありまして」

電話を切ると、研究室は静寂に包まれた。

窓の外では、フェリーの明かりが本土に向かって進んでいる。この島で生まれ育った技術を、海の向こうに運んでいく船のように見えた。

翌朝、田村は早めに出勤した。しかし、佐藤の席は空っぽだった。

「佐藤さんなら、昨日付けで退職されました」

総務の女性が教えてくれた。置き手紙があったという。

『田村へ。考えすぎると動けなくなる。技術に国境はない。俺たちの石炭技術で、地球を少しでもきれいにしよう。北京で待ってる。—佐藤』

田村は自分のデスクに座り、引き出しの奥から古い写真を取り出した。大崎クールジェンプロジェクトの開始時、チーム全員で撮った記念写真。20人いた技術者のうち、今も残っているのは5人だけだ。

10時頃、娘の咲希から LINE が来た。

「お父さん、学校で先生が言ってた。中国の石炭火力で出るCO2は年間80億トンなんだって。お父さんの技術で3割減れば、24億トン削減。これって日本全体の排出量の2倍だよ。すごくない?」

田村は返事に困った。娘の計算は正しい。そして彼女の「地球のため」という純粋な気持ちも理解できる。

しかし。

午後、プロジェクトマネージャーの山田課長に呼ばれた。

「田村君、君も例の話が来てるだろ?」

「はい...」

「率直に言う。来年度でこのプロジェクトは事実上終了だ。君たちのような優秀な技術者を抱えていられない。転職するなら、今がチャンスかもしれん」

山田課長は60歳。来年定年退職予定だ。

「でも課長は?」

「俺?俺はもう歳だよ。この島で余生を過ごす。君たちは違う。まだやれることがある」

夕方、田村は石炭ガス化炉の前に立った。高さ30メートルの巨大な設備。この中で石炭が燃え、CO2が分離され、クリーンなエネルギーに変わる。

10年間、毎日見続けてきた光景。

父の遺影が頭に浮かんだ。火力発電所で40年働いた父は、よく言っていた。

「石炭はな、使い方次第で悪魔にも天使にもなる」

その意味が、今になって分かる気がした。

携帯を取り出し、中国側の担当者に電話をかけた。

「お世話になっております。田村です」

「お疲れさまです。ご決断は?」

田村は空を見上げた。夕日が雲の隙間から差し込んで、ガス化炉を金色に染めている。

その美しい光の中で、彼は答えた。

しかし、その答えがイエスだったのかノーだったのかは、彼の口からは誰にも語られることはなかった。



この作品はフィクションです。

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