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むき出しの味 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

昨夜、政府は「自然食品完全表示法」を可決した。

ニュースを聞いた時、神田駅近くの小さなステーキハウス「風月」の店主、風間敏夫は長い間、店の奥の椅子に座ったまま動けなかった。ラジオからは淡々とアナウンサーの声が続いていた。古びたラジオからの声は、彼の店の終わりを告げるようだった。

これにより、すべての非加工食品には「地球影響指数」が表示されることになる。トマトには水のフットプリント、小麦には土地利用率、そして肉には、そのすべてに加えて「苦痛係数」まで。ありとあらゆる食品が、地球や生命に対する影響度で数値化される。

風間は窓際の席に座り、窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。六十二歳の顔には深い皺が刻まれ、太い指には包丁を握り続けた証の硬い茧ができていた。彼はこの場所で三十年間、毎日ステーキを焼き続けてきた。バブル崩壊も、リーマンショックも、そして巨大地震もこの店は乗り越えた。だがこれは、違った。

「風月」は今日が最後の営業日だった。

夕方になり、店の準備を始めながら、風間は若いアルバイトの陽子に愚痴をこぼした。

「もう無理だよ、こんな数字を目の前に出されちゃ」

彼は肉を切りながら言った。ナイフが厚みのある赤身に入っていく感触が、今日は特に鮮明に感じられた。

「牛肉の横に『この商品は地球温暖化の14%に相当します』なんて書かれちゃ、誰も口にできないよ」

陽子は黙って頷いた。環境科学を学ぶ大学生の彼女には、この新法の必要性が理解できた。しかし同時に、三年間働いてきたこの店の閉店が辛かった。

「でも風間さん、明日からの新しい店も手伝いますから」と彼女は小さく言った。

風間は微笑み、彼女の肩をポンと叩いた。

最後の夜、店は満席だった。開店と同時に、昔からの常連たちが次々と訪れ、黙々と最後の一皿を味わっていた。店内には特別な空気が流れ、普段より静かな会話と、肉を切る音だけが響いていた。

春日井という中年の男性は、テーブルに座り、ワイングラスを回していた。彼は製薬会社の営業職で、十五年間毎週金曜日にここでステーキを食べてきた。仕事終わりの楽しみであり、彼の人生の一部だった。

彼は目の前のミディアムレアのステーキから立ち上る湯気を見つめながら、ふと思った。

「不思議だな。これまで何の罪悪感もなく食べてきたものが、明日からは『有害』のレッテルを貼られる」

肉汁が皿に滴り、小さな赤い池を作っている。彼は自分の顔が映り込むのを見た。

彼の向かいに座っていた若い女性、倉田は環境政策の研究者だった。彼女は知人の紹介でこの最後の夜に招かれていた。黒縁眼鏡の奥の目には知性が宿り、短く切りそろえた黒髪が顎のラインに合わせて揺れた。

「そもそも『見えない負担』を『見える化』しただけなんですよ」

彼女は小さく笑いながら言った。声は優しかったが、芯があった。

「前から存在していた数字を、表に出しただけです。人々が知る権利があると思いませんか?」

春日井は首を横に振った。フォークを握る手に力が入る。

「でも昔の人間は、そういうものを意識せずに生きてこられた」

彼は少し声を荒げそうになったが、抑えた。

「俺たちの世代は、目に見えない数字で罪悪感を持たされるんだ。食事をするたびに、『あなたは地球を壊しています』って言われるようなもんだ」

ステーキの赤身を切り分けながら、春日井は続けた。

「何を食べるかは個人の自由じゃないのか」

「それが進歩というものです」と倉田は言った。

彼女はサラダだけを注文していた。フォークで葉物をつつきながら、静かに話を続けた。

「私たちの子どもの世代は、こういった数字を当たり前に考慮して生きていくでしょう。それが彼らの『自由』になるんです」

春日井はその言葉に反論しようとしたが、その時、風間が厨房から出てきた。店内の会話が自然と止まり、すべての視線が彼に集まった。

風間は白いシェフコートを脱ぎ、静かにテーブルの間を歩いた。手には古いワインボトルがあった。

「みなさん、長い間ありがとう」

彼の声は震えていた。目元が赤くなっている。

「明日からは、うちも代替肉専門店として再出発します。時代の流れには逆らえません。でも、今夜だけは…」

彼は店内の電気を消す合図をした。陽子がスイッチに手を伸ばし、照明が一つ、また一つと消えていった。薄暗い店内で、皿の上の肉だけが小さなロウソクの明かりに照らされていた。

「今夜だけは、数字を忘れてください。ただ、味わってください」

風間は各テーブルを回り、特別なワインを注いだ。彼の手には少しの震えがあったが、動きは確かだった。三十年の経験が体に染みついている。

春日井は暗闇の中で肉を口に含んだ。数字も、表示も、罪悪感も一切見えない暗闇の中で、むき出しの味だけがあった。柔らかく、ジューシーで、どこか懐かしい。それは彼の子ども時代、数字など気にせずに食べていた頃の記憶と重なった。父親に連れられて初めて食べたステーキの味。

「どう?」風間が彼のテーブルに立ち、小声で尋ねた。

「最高だよ」春日井は正直に答えた。「いつもの味だ」

「そうか、良かった」風間は笑った。シワの間に涙が光っていた。

窓の外からは街の灯りが漏れ、皿の上の肉が輝いていた。春日井はそこに映る自分の顔を見た。まるで鏡のように、過去と未来の自分が同時に映っているようだった。

「こんな味、もう二度と味わえないだろうな」

言葉が口から零れた。春日井は自分でも驚いた。それは肉そのものの味ではなく、その向こう側にある何かについての言葉だった。罪悪感のない時代、数字に縛られない自由、そういったものへの別れだった。

倉田はそんな彼を見つめながら答えた。テーブルの向こうから、彼女の目が闇の中で輝いていた。

「はい。でもそれは、次の世代のためです」

彼女の声には、かつてないほどの優しさがあった。それは対立ではなく、理解を求める声だった。

春日井はグラスのワインを飲み干し、それ以上は何も言わなかった。二人の間には、言葉を超えた理解があった。変わりゆく時代の中で、それぞれの立場から未来を見つめる姿勢。

時間は静かに流れた。店内ではそれぞれのテーブルで、最後の食事が終わりに近づいていた。

風間は台所に戻り、最後の仕込みを片付けた。明日から彼の店では、培養肉と代替タンパクのみが提供される。彼は長い間守ってきた肉の調理技術を生かし、新しい食材と向き合うことになる。それは終わりではなく、新しい始まりだと、彼は自分に言い聞かせた。

最後の客が帰り、春日井も席を立った。彼は財布を開き、最後の食事の代金を払おうとした。春日井の代わりに倉田も立ち上がり、彼女も会計を済ませようとした。

「今日は要りません」と風間は二人に言った。彼の目は疲れていたが、どこか晴れやかだった。

「数字に変えられない価値があることを、最後に教えてくれましたから」

彼は春日井と倉田の両方を見た。相反する二つの世界、過去と未来の象徴のような二人だった。

「これからも、たまに来てください。代替肉も、きっとおいしく作りますから」

二人は頷き、店を後にした。

春日井が店を出ると、街には新しい広告が輝いていた。巨大なデジタルサイネージに「植物性の未来へようこそ」という文字が流れている。街行く人々は無関心に歩いていた。彼らにとって、これは単なる別の日常になるのだろう。

彼は深く息を吸って、その空気の中に漂う何かが、確かに変わりつつあることを感じた。

「春日井さん」

後ろから倉田の声がした。彼女は店の前に立ち、どこか迷いがちな表情をしていた。

「もし良かったら…代替肉の研究所の見学に来ませんか?私がご案内できます」

彼女は微笑んだ。その笑顔には誠実さがあった。

春日井は一瞬考え、そして頷いた。

「行ってみようかな。新しい時代を、この目で見てみたい」

二人は夜の街を歩き始めた。過去と未来の間に、細い橋が架かり始めていた。

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