見出し画像

制御された調和 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

「お前ってやつは、ほんと昔気質だな」

岸和田は微笑んで白衣の同僚を見た。遺伝子工学技師の三島は、有機茶園でのんびり暮らす祖父から送られてきた実物の緑茶を淹れていた。実際の土で育った植物が、実際の太陽の下で光合成をした茶葉。今や珍しいものだった。

「だって、これが本物の味がするんだもの」三島はカップに注ぎながら答えた。実験室の窓の外では、東京湾の水が穏やかに揺れていた。「それに、おじいちゃんの茶園は環境ホルモン除去認証を受けているのよ」

壁に掛かるモニターにアラートが表示される。「ユニットC17:ビスフェノールA排出検知」

「あー、またか」岸和田は溜息をついて立ち上がった。「排水システムのどこかが劣化してるんだろうな」

「確認しておく」三島も席を立った。「岸和田さん、今日の講義どうだった?子供たちの反応は?」

「まあ、古代史だからね」岸和田は笑った。「『恐怖の90年代:環境ホルモン危機』なんて、彼らには神話みたいなものさ」

かつて「内分泌かく乱物質」と呼ばれ、コルボーンやその他の科学者たちが警鐘を鳴らした化学物質群。それらは今、完全に制御されていた。

「パネル討論のゲストで、ひとりだけ95歳のおばあさんがいたんだ」と岸和田は続けた。「彼女が言うには、昔は赤ちゃんのおもちゃまでプラスチック製で、飲料水のボトルは使い捨てだったそうだ」

「うそ!」三島は驚いたように声を上げた。「環境ホルモン規制前の世界って、想像できないわ」

「彼女は『奪われた未来が返ってきた』って言ってた」

二人は内分泌系コントロールセンターを歩きながら会話を続けた。水質モニタリングステーションは、東京湾全域の環境ホルモン濃度を常に監視していた。

「コルボーン博士が最初に警告してから80年。彼女の予言した『奪われし未来』は回避された」と岸和田は続けた。「でも、別の未来が生まれた」

三島はカップを口元に運び、一口飲んだ。「でも、環境ホルモンコントロール技術が発展しすぎて、別の問題が出てきているわよね」

「ああ、『過剰制御症候群』か」

彼らはユニットC17の前に立った。パネルには赤いランプが点灯している。岸和田がデータを確認し始めた。

「これ、おかしいな」彼は眉をひそめた。「この数値だと、排水パイプの劣化ではなさそうだ。どこかで意図的に排出されている」

三島が震えるように小さく息を呼んだ。「違法なの?だれが?」

「わからない」岸和田は言った。「でも、これは調査する必要がある」


川崎研究所の裏門から出ると、日差しがまぶしかった。岸和田と三島は小型電気車で海岸線を北へ向かった。

「なぜわざわざビスフェノールAを排出する?」三島は不思議そうに尋ねた。「中和技術が確立されているのに」

「ゆるやか派の活動かもしれない」岸和田は真剣な表情で答えた。

「ゆるやか派?あの過激なグループ?」

「過激とは言っても、彼らは破壊活動をするわけではない」岸和田は説明した。「彼らは『自然のホルモンバランス』を取り戻そうとしている。人工的な制御に頼りすぎるのは危険だと主張しているんだ」

「でも、それは時代に逆行するわ」三島は言った。「環境ホルモン問題を克服したからこそ、生殖異常や発達障害、ホルモン関連がんの発生率が激減したのよ」

「確かにそうだ」岸和田はうなずいた。「だが、ゆるやか派が懸念しているのは別の問題さ」

彼は車を止め、海を指さした。「見てみろ」

三島は視線を向けた。海面は穏やかで、水は透明に近かった。「きれいな海ね」

「きれいすぎるんだ」岸和田は言った。「微量の環境ホルモンを完全に除去した結果、海洋生物の多様性が変化している。特に、ある種の微生物たちが」

「それが問題なの?」

「問題かどうかはまだわからない」岸和田は言った。「私たちはコルボーンの予言した『奪われし未来』を回避したが、その代わりに別の未来が来たんだ。完全制御された未来が」

彼らは再び車に乗り込んだ。

「赤瀬地区の排水口を見てみよう」岸和田は言った。「ビスフェノールAの排出源が見つかるかもしれない」


赤瀬地区の古い倉庫群の間を縫うように流れる水路。その排水口の前で、岸和田と三島は驚くべき光景を目にした。

老人たちが集まって何かの儀式のようなことをしていた。中央には、90代と思われる白髪の男性が立っている。

「松岡博士!」岸和田は驚いて叫んだ。

老科学者は振り返り、微笑んだ。「やあ、岸和田君。来るとは思っていたよ」

「何をしているんですか?」岸和田は混乱した様子で尋ねた。「あなたは…環境ホルモン規制の立役者でしょう?」

「そうだ」松岡は穏やかに答えた。「だからこそ、私は均衡を取り戻そうとしているんだ」

彼は手にした小さな容器を示した。「これは調整されたビスフェノールA。私たちが計算した、最適な量だ」

「でも、それは違法です!」三島が声を上げた。

「法律は時に科学に追いつけない」松岡は言った。「私たちが発見したのは、完全な除去が必ずしも最適ではないということだ。生態系には、微量の環境ホルモンが必要な部分もある」

岸和田は黙って考え込んだ。「微生物の多様性の変化…それと関係があるんですか?」

「鋭いね」松岡はうなずいた。「我々は環境ホルモンと闘うあまり、その微妙な役割を見落としていた。自然は複雑なシステムだ。完全な排除より、最適なバランスが重要なんだよ」

「でも、それならなぜ秘密裏に?」岸和田は尋ねた。「研究として公表すれば…」

「誰が『環境ホルモンを少し戻そう』という提案を受け入れるだろうか?」松岡は悲しげに微笑んだ。「コルボーンの予言した未来は回避された。だが今、我々は別の極端に向かっている」

岸和田と三島は顔を見合わせた。

「私たちはどうすべきだろう?」三島は小声で尋ねた。

岸和田は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。「まずは、彼らの研究データを見せてもらおう。そして…判断しよう」

彼は松岡に近づいた。「博士、あなたの研究を見せてください。もし科学的に正当性があるなら…私たちも考え直す必要があるかもしれません」

松岡は安堵の表情を浮かべた。「ありがとう、岸和田君。私たちが求めているのは、破壊でも無秩序でもない。真の調和なんだ」

三島は茶葉の香りがまだ残るカップを手に、静かに海を見つめた。

「コルボーンの言った『奪われし未来』も、過剰制御の『制約された未来』も、どちらも極端なのかもしれないわね」彼女は呟いた。

夕日が海面を赤く染める中、彼らは新たな均衡の可能性について考え始めていた。

#創作大賞2025 #お仕事小説部門 #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

いいなと思ったら応援しよう!

國分裕之 あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。