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煙とクレジット 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

年齢は五十を過ぎ、胃腸は弱っていたが、肺だけはよく働いていた。理由は簡単、毎日一箱――タバコを吸い続けていたからだ。

どういうわけか、彼の記憶の中では、煙を吸い込むたびに父親の姿が蘇った。戦後の混乱期に密造酒を飲んで半身不随になった父は、それでも息子の前で煙をくゆらせる姿だけは格好よく見せようとしていた。

「タバコをやめるぐらいなら、飯を減らすよ」

カネコはそう豪語していた。それは、まだ「金でタバコが買えた」時代の話。給料日前になると、上司にタバコをせびっていた頃の恥ずかしい思い出も、今となっては懐かしい。


時は変わって、社会は炭素通貨――CC制に移行した。気候変動対策のための「炭素税」は、次第に「炭素権」へと変貌していった。もはや、お金だけでは何も買えない。個人に割り当てられた排出枠がなければ、水すら飲めない社会。

いまや、タバコは「嗜好品」ではなく「排出罪」である。煙草の箱には、昔の「肺がんになります」の代わりに「1本あたりCO₂排出量:6CC」と書かれていた。1日20本で120CC。月にすれば3600CC――だが、市民の月間支給は1000CCにすぎない。

カネコのCC残高は、いつもカラだった。食事はほとんど抜いていた。パン1枚で8CC。味噌汁は12CC。彼の痩せこけた体は、「タバコ2本分に見合う価値がない」と判断した食事の結果だった。

会社でも肩身が狭かった。喫煙所は今や、カーボン密室と化していた。特殊な素材で作られた専用の密閉ブースで吸わなければならず、入場料は3CC。あの狭い空間で他の喫煙者と顔を合わせるのは、まるで共犯者同士のようだった。しかも、煙はすべて回収・濃縮され、個人の排出証明として政府に提出される。

「そんなもん、余計なCO₂増えるだけだろうが!処理するのにエネルギー使って、逆効果じゃねーか!」

カネコは愚痴ったが、誰も聞いちゃいなかった。彼の声は、回収機のファンの音にかき消されていた。

新人社員の市川は、耳に埋め込んだカーボン・モニターを指でなぞりながら、さも当然のように言った。

「それだけ排出したいなら、自分でオフセットすればいいじゃないですか。パーソナル・フォレストとか始めてみては?今なら初期費用5千CCで…」

「俺の父なんて、禁煙してからCC貯めて炭素取引所で投資してますよ。今じゃ"炭素長者"です」

カネコは、白い歯を見せる市川を横目で見た。若い奴らは順応が早い。彼らは生まれた時から、呼吸すら数えられる世界で育った。

「ふん、炭素で金を生むって、カビ臭い話だな。お前らの時代になって、自由なものが一つでも増えたか?」

答えはなかった。

その夜、カネコのマンションの灯りはつかなかった。エアコンもテレビも当然使えない。ベッドの脇にある古いモニターが、青白く残高を示していた。 残高:4CC。

寝ようにも暑くて眠れない。胃は痛むし、頭も重い。それでも彼は、布団の中でそっとライターを取り出した。タバコ1本。残りの命。

「……うまい」

独り言のようにつぶやいた。かつて、同僚との飲み会の二次会で、すでに酔っていた経理部長が「タバコの煙には宇宙の真理がある」と言っていたことを思い出した。馬鹿げた話だと笑ったのに、今は何となく分かる気がした。

火が、口元に近づく。一瞬、煙が立ちのぼり――

そのとき、玄関がノックされた。時計は夜の11時47分を指していた。不審に思いながらドアを開けると、白いユニフォームを着た若い女性が立っていた。CC監査官のバッジが光っている。

「カネコ・ミツオさんですね。本日21時53分、累計排出量が月間上限を超過しました」

監査官の言葉は事務的だったが、どこか申し訳なさそうな表情も見せた。カネコは残りのタバコを消そうとしたが、女性は制止した。

「吸ってください。あと4CCの超過なら、来月の枠から借りることもできます」

「知ってるよ。自分のクレジットぐらい、自分で把握してる」カネコは苦々しく言った。

「それでは、超過分のCO₂削減措置として、今週末に"CC奉仕活動"へご参加いただきます。内容は千葉の炭素吸収林での労働です。希望すれば、禁煙プログラムも併用可能です」

監査官の声は機械的だったが、最後の一言だけは人間らしく加えられた。「率直に言って、指標的には…お体が心配です」

「結構だ。俺は煙のある人生を選んだ。あんたらが"空気をきれいにするため"って言って、俺の自由を削るのは筋が違う」

カネコは自分でもなぜそんなに怒っているのか分からなかった。父のように、最後まで意地を張っている自分がいた。

監査官は苦笑した。その表情は、カネコが持っていた「環境警察」のイメージとは少し違っていた。

「"空気をきれいにする"なんて誰も言ってませんよ」

彼女は少し声を落とした。

「我々は"排出バランスを帳簿上で整える"だけです。市長の出張用プライベートジェットの排出枠を確保するために、市民から回収しているだけ、という見方もありますよ。あなたが死んでも、CO₂さえ帳尻が合えば、制度的にはクリーンなんです」

カネコは、その言葉にしばらく沈黙した。初めて聞いた本音だった。監査官は、彼が知らないある「真実」を持っているようだった。彼は不意に、昔のように心臓が速く鼓動するのを感じた。

「あんた…名前は?」

「佐々木です。いちおう、プライベートでは」

彼女はバッジを一瞬隠した。

カネコは最後の一服を深く吸い込んだ。たばこの先が赤く燃えた。そして煙を吐き出しながら言った。

「だったら、俺の遺灰もオフセットに使ってくれ。きっと、いい肥料になる」

佐々木は静かに頷いた。そして公式記録用のレコーダーをオフにして、ポケットから何かを取り出した。それは古い形式のタバコの箱だった。

「これ、密造品ですけど…CCカウントされません。たまに、昔の喫煙者の方に差し上げています」

彼女の視線は遠く、どこか別の場所を見ているようだった。

「私の祖父も、最後まで吸ってました。」

カネコはその箱を受け取った。思ったより軽かった。

「…お前、クビになるぞ」

「大丈夫です。今日の私は、システム上、この街区には存在していません」

彼女は微笑んだ。その表情は、厳しい規則に縛られた世界でも、まだ人間らしさが残っていることを示していた。

カネコは箱を開けてみた。中には、思ったより多くのタバコが詰まっていた。

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