シフトチェンジ 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
アクセルペダルを踏み込んだ瞬間、車体が一気に前に飛び出した。静かに、だが確実に。
「どうだ、ライナー? これがわれわれの未来だよ」
ヴォルフガング・シュタインバッハは、助手席のライナー・ヴォルフに意味ありげな視線を送った。シュタインバッハはBMW(バイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ)の研究開発部門長。彼が運転しているのは、同社が2025年に発売予定の新型電気自動車「iX3次世代モデル」のプロトタイプだった。
ヴォルフは無言で窓の外を見つめていた。彼はBMWの財務部門を率いる役員で、シュタインバッハとは15年来の同僚だ。彼らは会社の車で、ミュンヘン郊外のテストコースから本社へと戻る途中だった。
「まだ懐疑的かい?」シュタインバッハが言葉を続けた。「これが未来だよ。カーボンニュートラル、クリーンエネルギー、持続可能なモビリティ――」
「止めてくれ、ヴォルフガング」ヴォルフが苛立ちを隠さずに口を開いた。「その言葉は10年間、毎日聞かされてきた。そして今、我々はどこにいる?」
シュタインバッハの表情が曇った。彼は速度を落とし、道路脇に車を停めた。
「2035年までにすべての新車をEVにする」と言っていたのは誰だ? ディーゼルゲートで業界全体が大騒ぎになって、あわてて『クリーンな未来』を宣言したのは誰だ?」ヴォルフは続けた。「我々は経営陣も政府も、みんなでEVシフトと叫んだ。そして今、我々は中国のBYDに市場を食われている」
2015年、フォルクスワーゲンを皮切りに欧州メーカーのディーゼル車の排ガス不正が発覚した際、BMWも業界全体の風評被害に巻き込まれ、急速なイメージ回復のため「2025年までに新車販売の25%を電動化」という計画を打ち出した。その後、EU全体のEV推進政策に沿う形で、目標はさらに引き上げられていった。
「時代が変わったんだ」シュタインバッハは静かに言った。「2015年のあの時は、誰もこうなるとは予想していなかった」
「予想できたさ」ヴォルフは苦々しく言った。「トヨタは最初から慎重だった。『多様な選択肢』と言って、ハイブリッドを続けた。そして今、彼らは利益を出し続けている。我々は? 閉鎖の危機に瀕した工場がいくつある?」
シュタインバッハは黙ったまま、ダッシュボードに取り付けられたディスプレイを見つめた。iX3の航続距離表示は、すでに赤く点滅し始めていた。
「クルマの開発には10年かかる」シュタインバッハは言った。「あの時、業界全体がディーゼルゲートで追い詰められて、焦って全力でEVシフトすると宣言したのは間違いだったかもしれない。でもそこからずっと我々はEVに投資してきた。今さら引き返せない」
「引き返す必要はない」ヴォルフが言った。「但し、多様化は必要だ。我々は未来を見誤った。幸い、我々には選択肢がある」
彼が言及したのは、2013年から続くBMWとトヨタの戦略的提携だった。両社は燃料電池技術の共同開発で協力関係を結んでいた。当時はEVシフトの勢いに押されて注目度が下がっていたが、今や貴重な技術的資産となっていた。
空が急に暗くなった。シュタインバッハは運転を再開し、本社に向かって車を走らせた。BMWは「iシリーズ」として電気自動車の展開を続けてきたが、当初の予想より販売は伸び悩み、巨額の開発費が重荷になっていた。一方で、中国メーカーの台頭は予想以上で、欧州市場での競争は激化していた。
あれから10年。2025年は彼らが「電動化を大きく進展させる年」として掲げた目標の年だった。しかし現実は厳しかった。コストは下がらず、中国メーカーの台頭は予想以上だった。厳しいCAFE規制も目前に迫り、会社は厳しい決断を迫られていた。
「今日の取締役会、どうなると思う?」シュタインバッハが尋ねた。
「選択肢は三つだ」ヴォルフは窓の外を見たまま答えた。「多額の罰金を払うか、英国工場を縮小するか、それとも…」
「それとも?」
「トヨタとの燃料電池の共同開発を加速させるか」ヴォルフはため息をついた。「正直、あの共同開発を続けていたのは正解だった。当時はEVに押されてあまり注目されなかったが、今や我々の救いの綱かもしれない」
BMWとトヨタは2013年に水素燃料電池車の共同開発協定を結び、相互の技術を活用する戦略的パートナーシップを築いてきた。BMWは軽量化技術やドライブトレイン開発で強みを活かし、トヨタはミライで培った燃料電池スタックの技術を提供していた。
「水素についてはトヨタと我々だけが正しい選択をしていたのかもしれない」シュタインバッハが苦笑した。
「彼らだって苦戦している。でも少なくとも技術の選択肢を残した」ヴォルフは手帳を開き、午後の取締役会のための数字を確認した。「多くの欧州メーカーはディーゼルゲートでパニックになって、政府や世論に流された。そして見切り発車した。我々もかなり流されたが、少なくともトヨタとの提携は続けた」
「あの時、他に選択肢はなかったように思えた」シュタインバッハは弁解するように言った。
「あった。環境対応しながらも、多様な技術開発を続けるという選択だ。欧州委員会に2035年目標の延期を求めるという選択だ。今、メルセデスも方針転換している」
シュタインバッハはEVの充電残量表示を気にしながら、スピードを落とした。今日の取締役会では今後5年間の投資計画が議論される。彼が率いてきた電気自動車開発プロジェクトの方向性が大きく変わるかもしれない。
「ニュースを見た?」ヴォルフがスマホの画面を覗き込みながら言った。「メルセデス・ベンツが2035年までの完全EV化の撤回を正式発表した」
「ああ、見た」
「理由は『市場環境の変化に対応』だそうだ。多様なパワートレインの継続開発を進めるという」
シュタインバッハは頭を抱えた。彼が携わってきたEVシフトは、どこで道を誤ったのだろう。BMWは「ニューエナジービークル」イニシアチブに巨額の投資をしてきた。
「私たちは何を間違えたんだ?」彼は小さくつぶやいた。
「間違いではなく、焦りだったんだ」ヴォルフは呟いた。「ディーゼルゲートのパニックが業界を技術的な賭けに走らせた。そして今、我々はその代償を払っている。幸い、我々はトヨタとの燃料電池開発という保険を持っていた」
BMWの本社ビルが見えてきた。近代的な円筒形の「フォーシリンダー」と呼ばれる特徴的な建物だ。かつてはその側面に「2035年までにカーボンニュートラル」と大きく書かれたバナーが掲げられていたが、今はその場所には「INNOVATIVE POWER. RESPONSIBLY DEPLOYED.」という控えめなスローガンが掲げられていた。
シュタインバッハは車を止め、エンジン――いや、モーターを切った。バッテリー残量表示は10%を切っていた。
「今日の取締役会で、iシリーズとHシリーズの均衡点が変わるかもしれないな」シュタインバッハは肩を落として言った。Hシリーズとは、BMWが計画している水素燃料電池車のコードネームだった。
ヴォルフは友人の肩に手を置いた。「技術者として忘れないでほしい。シフトチェンジは失敗ではない。状況に応じた適応だ。BMWはいつだって『駆けぬける歓び』を創造してきた。その本質は変わらない」
彼らはゆっくりと車から降り、足取りも少し軽くなって本社ビルに向かった。空にはかすかに雨の気配があった。本社ロビーには、BMWが2015年に初めて発表した水素燃料電池のコンセプトカー「i Hydrogen NEXT」のミニチュアモデルが展示されていた。当時は傍流と見なされていたこの技術路線が、今や新たな可能性を秘めていた。
ドアを開ける前、シュタインバッハは振り返り、駐車場に停めたiX3プロトタイプを見つめた。流麗なデザイン、最新技術の結晶。そして未来の希望だったはずの車。しかし彼の頭の中には、トヨタとの共同開発中の燃料電池技術が新たな希望として浮かんでいた。
「次のシフトチェンジはもう始まっているのかもしれないな」と彼は希望を込めて呟いた。
雨が静かに降り出した。
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