神の食卓 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
目を開けると、そこはまばゆい光に包まれていた。
ふかふかの雲の上、白いゲートの前に立っている。霞がかったような空気の中、遥か遠くから鐘の音が聞こえてくる。
加藤良介は、自分の体が異様に軽くなっていることに気づいた。腰の痛みも、左肘の関節炎も、喘息の発作も——すべて消えていた。
「やっと死んだのか……」と、彼はつぶやいた。
三年七ヶ月続いた闘病生活の末、ようやく訪れた解放。病室のことを思い出す。左腕に刺さっていた点滴。右手に握りしめていた妻の写真。泣きながら見送る娘の姿。そしてその前に——彼が最後にどうしても食べたいと言い張った国産和牛A5ランクのフィレステーキのこと。
医師も看護師も反対したが、妻は黙ってそれを持ち込んでくれた。「一生の思い出だから」と、彼女はこっそり病室の窓を開け、焼きたてを運び入れた。あの肉汁の香り、口の中に広がる旨味——死ぬ直前だからこそ味わえた究極の贅沢。
加藤は思わず口元を緩ませた。あとは、天国でステーキ三昧——そう信じていた。
門の前に立っていたのは、ローブ姿の係員だった。翼はなかったが、明らかに人間ではない。やけに細い眼をして、タブレットを片手にこう言った。その姿は、奇妙にも加藤が若い頃に通っていた区役所の窓口職員を思い起こさせた。
「はい、次の方。お名前は?」
声はどこか機械的だが、不思議と温かみがある。
「カトウ・リョウスケ。昭和43年生まれ。ステーキ愛好家。」加藤は少し誇らしげに言った。彼はそれが自分のアイデンティティの一部だと常に思っていた。
「はあ、そうですか……。ちょっとお待ちください」
係員は画面をなぞり、眉をひそめた。その指は半透明で、光の粒子のようだった。
「えー、カトウ様。あなた、人生で合計……342kgの牛肉を摂取されてますね?」
加藤は思わず喉を鳴らした。数字を聞いて驚いたが、どこか誇らしくもあった。
「そりゃまあ、若い頃から焼き肉好きでね。月に二回は行ってたし、タッパーに入れて娘の家にも持っていってたんだ。死ぬ直前にも霜降りのA5ランクを……」
加藤は、あの病室での最後の味を思い出し、思わず舌なめずりをした。そのとき、係員の表情が変わった。
「はい、それが問題です」係員は無表情で告げた。
「天国の入場には、"ヴィーガン履歴"が求められます。植物性食品オンリーで最期を迎えた方のみ、パーミッションが与えられる決まりになっておりまして」
「はあ!?なんだその後付けルール!」加藤は声を荒げた。彼の周りの空気が揺れ、雲が渦を巻いた。
「地球規模の炭素管理が、死後世界にも拡張されたのです。ここ数十年で"信仰と環境倫理の統合"が進みましてね。地上の罪は、あの世でも反映されるようになりました」
係員の声は事務的だったが、わずかに申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。
「ふざけるなよ!俺は人殺しも盗みもしてない!七十年間、真面目に働いて税金も納めた。ステーキ食ったぐらいで……」
加藤は白い門の向こうを見た。そこからは美しい音楽が聞こえてくる。彼は涙ぐみながら続けた。「あそこには、妻もいるんだろう?彼女はヴィーガンじゃなかったけど、俺より先に……」
「CO₂換算で7.2トン、メタン換算ならさらに加算されます。生きてる間に十分なオフセット申請をしていれば……」
「オフセット!?死んだあとまで帳簿つけてんのか、こっちは!」
加藤は思わず、生前に届いていた「カーボンオフセット推進チラシ」を無視していたことを思い出した。あれは、娘が持ってきたものだった。
係員は溜息をついた。その息は虹色に輝いていた。
「こうなる方、最近多いんですよ。"最期の晩餐ステーキ"とか、流行ってましたからね。ご高齢の方には特に多くて……」係員は一瞬、タブレットから目を離して加藤を見た。「非常に残念ですが、地獄の方をご案内します」
「冗談じゃねえ!地獄って、業火で焼かれるあそこだろ!?肉よりよっぽどCO₂出てるじゃねえか!」
加藤の声が震えた。彼は娘の結婚式で、最高のステーキを振る舞った時のことを思い出していた。あの時の娘の笑顔。その記憶が、今や罪になるというのか。
「ご安心ください。再エネ100%の業火です。」係員はにこやかに言った。
「……なんだその、モダンな地獄は」
加藤は茫然自失の表情で呟いた。彼は思わず、生前最後に食べたステーキの味を舌先で思い出した。あの時、もし豆腐を選んでいれば……。
係員は手を叩いた。すると無音のエレベーターが現れ、カトウは強制的に乗せられた。エレベーターは透明で、下には果てしない深淵が見えた。
「まあ、地獄にもソイミートはありますよ。慣れればいけます。三ヶ月くらいで味の区別もつかなくなりますから」
係員は少し同情的な顔つきで続けた。「なお、過去の食歴を懺悔する"炭素カテドラル"もありますので、反省の機会としてぜひ。あとは、プラントベース食品開発の作業部隊に参加すれば、1000年に一度、天国観光ビザが発行される可能性もあります」
加藤は絶望的な表情でエレベーターに立っていた。扉が閉まる直前、彼は叫んだ。
「こんな地獄があるかァァァァァァ!!妻に会わせろ!!最後に肉を持ってきてくれたのは彼女なんだぞ!!」
その叫びは虚空に吸い込まれていった。
——こうして、また一人、ステーキ好きが天国を逃した。残されたのは、環境規制に従う冷徹な現実だった。
エレベーターが下降しながら、加藤は妻と過ごした最後の瞬間を思い出していた。彼女が耳元でささやいた最後の言葉。「また向こうで会おうね、良介」
天国の門番係員は、加藤が去った後、密かにタブレットの裏にしまい込んでいたビーフジャーキーを一切れかじった。「やれやれ、規則は規則だが……」と呟きながら。
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