倍々ゲーム 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「インド共和国環境気候省上級科学官・シャルマ博士のご講演は以上となります。どなたかご質問はありますか?」
国際炭素排出シンポジウムの司会者が声をかけると、最前列の一人の日本人男性が手を挙げた。
「三井商事の山田です。素晴らしいご発表をありがとうございました。一つ教えていただきたいのですが、先ほどのデータでメタンは20年スケールで二酸化炭素の約84倍の温室効果があるとのことでしたが、この数値は最新のものなのでしょうか?」
「ご質問ありがとうございます」シャルマ博士は微笑んだ。「IPCC第6次評価報告書のデータに基づいています。メタンの地球温暖化係数(GWP)は、時間スケールによって異なりますが、20年では約84倍、100年では約28倍となっています」
山田は納得したように頷き、席に戻った。隣に座っていた同僚の鈴木が小声で尋ねた。
「どうして気になったの?」
「いや、前回の国際会議では20年で72倍と言っていたから。数値が上がっている」
鈴木は眉をひそめた。「それってまずくない?僕らのLNGプロジェクトとか」
「そうだなあ」と山田は曖昧に答えた。
その晩、ホテルの一室で山田はパソコンに向かっていた。気候変動に関する最新の論文を読み漁り、メタンの温暖化効果についてのデータをまとめていた。
彼の会社、三井商事はいくつもの液化天然ガス(LNG)プロジェクトを世界各地で展開していた。LNGは石炭に比べて燃焼時の二酸化炭素排出量が少なく、「クリーンな化石燃料」として推進されていた。
しかし、LNGの主成分はメタンだ。生産から輸送、使用に至るまでのプロセスでのメタン漏れが大きな問題になっていた。
「メタン漏れ率がわずか3%でも...」山田は計算機を叩いた。
メタンが20年スケールで二酸化炭素の84倍の温室効果を持つという最新データを使うと、LNGの気候への影響は石炭とほとんど変わらなくなる。ちょっとした漏れでも、その環境価値は大きく損なわれるのだ。
山田はため息をついた。明日の会社への報告書に何を書けばいいのか。
朝食レストランで鈴木と一緒になった山田は、不機嫌そうな表情だった。
「どうしたんだよ、眠れなかったのか?」
「ちょっとね」山田はコーヒーをすすりながら言った。「メタンについてもう少し調べてみた」
「それで?」
「メタンは大気中で約12年ほど滞留した後、水酸基ラジカルとの反応で分解される。この過程で何が生まれるか知ってる?」
鈴木は首を振った。
「二酸化炭素とフォルムアルデヒドだ。つまり、メタンは結局、二酸化炭素になる」
「それがどうかしたのか?」
山田は食事を押しのけて、ノートパソコンを開いた。
「簡単な計算をしてみた。メタンは約12年で分解されて二酸化炭素になる。でも、その間の温室効果は二酸化炭素の84倍。その後、分解されて二酸化炭素になっても、その二酸化炭素は数百年にわたって大気中に残り続ける」
「なるほど、ダブルパンチか」
「トリプルパンチと言っていい」山田は指を折り曲げて説明した。「一つ目は、メタンの漏れによる直接的な温室効果。二つ目は、メタンが分解されて生成される二酸化炭素の長期的な温室効果。そして三つ目が最悪だ」
「三つ目?」
「メタン漏れのパーセンテージは年々上昇している。最新の衛星データによれば、我々の想定よりもはるかに多くのメタンが漏れている可能性が高い」
鈴木は黙って聞いていた。隣のテーブルでは、シンポジウムの他の参加者たちが温暖化対策についての議論に花を咲かせていた。
「なあ、山田」鈴木はしばらくしてから言った。「それって、我々のビジネスモデル全体が...」
「根本から間違っているってことだ」山田は言い切った。「『クリーンな化石燃料』なんてフレーズは、単なる幻想かもしれない」
鈴木は絶句した。
「今日から始まる新規LNGプロジェクトの契約交渉、どうする?」鈴木が小声で尋ねた。
山田は窓の外に広がる高層ビル群を見つめた。どの建物も今、天然ガスを使って冷暖房を稼働させている。彼らの会社のビジネスそのものだ。
「会社には報告する」山田はようやく口を開いた。「だが、世間は僕らのことを『環境を大事にしている日本企業』だと思っている。その評判が崩れたら...」
「社長が何と言うか、想像できるよ」鈴木は苦笑した。
山田はスマホを取り出し、「メタン分解 最終生成物 二酸化炭素」と検索した。情報は確かだった。
「メタンという言葉の語源はギリシャ語で『ぶどう酒』という意味なんだってな」山田が突然言った。「人間が酒に酔うように、地球も今、メタンに酔っているのかもしれない」
二人の会話を聞くことなく、レストランのスピーカーからは明るい音楽が流れ続けていた。
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