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循環する泡のゆくえ 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

野村准教授は、教壇に立つと透明なグラスを2つ持ち上げた。一方には水、もう一方には炭酸水。彼女は第一回「環境科学概論」の授業を、いつもと違う形式で始めることにした。緊張しているのか、手が少し震えている。

「今日は『二酸化炭素は悪』と簡単に言えるかを考えます」

教室の後ろでは、環境活動サークルの部長・西岡がため息をついた。彼は先週も旧山手通り沿いの学内広場でプラカードを掲げていた。「CO2削減!地球を救え!」と。彼の熱意は本物だった。

「この炭酸水の泡を見てください。これは二酸化炭素です。これが温暖化の原因なのでしょうか?」

野村はペットボトルの炭酸水をグラスに注いだ。泡がシュワシュワと立ち上がり、その音が静かな教室に響く。

「西岡君、あなたは環境サークルの部長ですね。この泡が温暖化に影響すると思いますか?」

西岡は自信満々に立ち上がった。昨夜も遅くまで資料を読み込んでいた自信があった。「もちろんです。二酸化炭素は温室効果ガスの約64%を占めています。この泡も大気に放出されれば温暖化に寄与します」

「なるほど」野村は答えながら、どこか物足りなさそうな表情を浮かべた。「では、このデータを見てください」

スクリーンには炭酸飲料業界のデータが映し出された。野村はこのスライドを作るのに三晩かかった。

【炭酸飲料用CO2の出所】
- 石油化学や製鉄所などの製造過程で発生する副産物から回収
- 本来大気に放出されるCO2を一時的に利用

「実は、この泡の正体である二酸化炭素は、すでに産業プロセスから発生した余剰ガスなのです。飲料に使われなくても、大気中に放出されていたもの。むしろ、一時的に炭素を閉じ込めていると言えます」

西岡は眉をひそめた。彼のノートに走り書きされた「CO2=悪」という等式が揺らぐ。

「でも、先生。それでも結局は大気中に出るじゃないですか」彼の声には少しイライラが混じっていた。

「その通り」野村は頷いた。「ただし、追加的に発生させているわけではないことが重要です。では次の数字も見てみましょう」

スクリーンは切り替わった。彼女の指先が少し緊張で冷たい。

【2018年 CO2排出量の内訳】
- 清涼飲料生産: 118万トン
- PETボトル生産・リサイクル: 219.1万トン
- 自動販売機の電力消費: 82.5万トン

「この数字から何がわかりますか?」

教室は静まり返った。学生たちの目が数字の意味を探っている。野村准教授はさらに続けた。

「炭酸飲料の泡そのものよりも、その製造過程や容器、販売方法によるCO2排出の方が問題なのです」

西岡は手を挙げた。顔が少し赤くなっている。「でも…それでも二酸化炭素は削減すべきではないですか?」

「もちろん」野村は穏やかに答えた。「でも、何を優先すべきかを考える必要があります。さらに別の角度から見てみましょう」

野村はもう一枚のスライドを示した。このデータは昨日の深夜に追加したものだ。

【気候変動がビール産業に与える影響】
- オオムギ生産の不安定化による価格上昇予測: 最大2倍
- 極端な気象条件下でのビール消費減少予測: 世界で16%減

「興味深いことに、二酸化炭素の増加による気候変動は、ビールなどの生産を難しくする可能性があります。つまり、加害者であると同時に被害者でもある」

西岡は静かに席に戻った。彼の隣の学生、田中がささやいた。「彼女の炭酸水の話は面白いけど、それで環境問題が解決するわけじゃないよね」西岡は無言で肩をすくめた。

授業終了のベルが鳴った。学生たちが荷物をまとめる中、野村准教授は最後の言葉を投げかけた。

「次回は、単純に『二酸化炭素=悪』と考えるリスクについて話します。環境問題は複雑で、一面的な理解では解決できません。しかし、複雑だからこそ、私たち科学者は正確なデータと多角的な視点を持つ必要があるのです」

帰り際、西岡は教壇に近づいた。彼の目には迷いがあった。

「先生、僕の活動は間違っていたのでしょうか?」

野村はほほ笑んだ。彼女は学生時代、同じような環境団体にいたことを思い出していた。

「間違っていません。むしろ重要です。ただ、より効果的な活動のために、単純化しすぎない知識が必要なだけです。次回のプラカードには、『PETボトル削減!地球を救え!』と書いてみては?」

西岡は少し考え込みながら、頷いた。

教室を出ると、彼はふと立ち止まり、自動販売機の前で迷った。赤いボタンが彼を誘っている。結局、彼は水筒を取り出して、校内の給水機に向かった。その足取りは、さっきより少し重かった。

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