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タイムマシンの不在理由 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

「教授、未来からタイムマシンが来ないのは、なぜでしょうか?」

突然の問いに、中村教授は顕微鏡から目を離し、老眼鏡を外した。若い頃に近視をレーザーで矯正したせいか、年を重ねた今では、細かい文字がひときわ見えづらい。実験机の向こう、助手の山田が真剣な顔でこちらを見ている。窓の外では土砂降りの雨。もはや年中行事と化した「100年に一度」の豪雨が、研究室の古びた窓を激しく叩いていた。

「どうした、山田さん。唐突だな」

「今朝のニュースで、気候変動の『ティッピング・ポイント』が話題になっていて……」

山田はペンをくるくる回しながら、言葉を探した。それは突発的な思いつきではなかった。ずっと心の片隅にあった疑問が、ようやく口をついて出ただけだった。

「人類に未来があるなら、破滅を避けるために未来人が過去に来て、何か手を打つはずだと思ったんです。タイムマシンがあれば、ですが」

教授は椅子を回転させ、天井を見上げた。シミが広がるその天井は、先月の大雨で漏水したまま放置されている。大学の予算では、そこまで手が回らない。

「……フェルミのパラドックスに似ているな。宇宙に知的生命体が多く存在するはずなのに、なぜ我々は彼らと出会えないのかという問いと、どこか重なる」

教授は冷めたコーヒーに口をつけ、しかめ面になった。忙しさの中で飲み損ねたそれは、いつもぬるかった。

「君の仮説は、こうか? ――『未来人が来ないのは、まだ人類が助けを必要とするほど危機的状況に陥っていないから』」

「はい。もし本当に未来が絶望的なら、誰かが戻ってくるはずです。何かしら警告を……」

山田の言葉には、若者らしい希望と、わずかな怯えが滲んでいた。

教授は小さく笑った。それは苦みを含んだ、諦念にも似た笑みだった。窓の外では、雷光が暗い空を裂いた。

「その考えには、二つの問題がある」

老いた指が、ゆっくりと一本立てられる。

「まず、タイムマシンが物理的に可能かどうか。因果律の逆転――それは、現代物理では説明がつかない」

続けて、痛みを堪えるように、二本目の指が持ち上がった。

「そしてもう一つ。君の前提には、見落とされた可能性がある。――未来人が来ないのは、来る必要がないからではない。来られないからかもしれない」

窓枠が震え、床に水滴が落ちる音がした。雨音が一瞬、会話をかき消した。

「来られない…?」

山田は身を乗り出した。その袖が、濡れたままの実験データに触れた。

「未来の人類が、もう存在しない可能性がある」

教授の声は、まるで観測結果を報告するような淡々とした響きだった。しかしその瞳には、重く深い感情が宿っていた。

「我々は助けられていないのではない。助ける者が、もう存在しないのかもしれない」

研究室を沈黙が包んだ。エアコンの不規則な振動が、かえって静けさを際立たせた。

「でも、それはあまりにも……」

「悲観的だと?」

教授は机の端に置かれた古びた写真立てを指でなぞった。家族の笑顔が、黄ばんだフィルム越しにこちらを見ていた。

「別の可能性もある。未来人は、もう来ているのかもしれない。――世界を変えるために、すでに行動している」

山田の目が輝いた。「どういう意味ですか?」

「もし君が未来から来て、歴史を乱さずに世界を救いたいと思ったら、どうする?」

山田は少し考えてから答えた。

「未来の技術を持ち込んで、問題を解決する?政治家に警告するとか……」

教授は静かに首を振った。

「そんなことをすれば歴史が歪む。タイムパラドックスを避けるには、もっと慎重で巧妙なやり方が必要だ」

「どんな?」

「たとえば、科学者として現代に溶け込み、地道に研究する。環境活動家として、人々の意識を変える。未来から来たことを告げずに、あくまで“この時代の人間”として最善を尽くすんだ」

山田は黙って教授を見つめた。彼の眼鏡の奥に、自分が歪んで映っていた。研究室の照明が一瞬ちらつく。

「教授……まさか……」

中村は、先ほどとは違う微笑を浮かべた。それは、確かな熱と希望を含んでいた。

「冗談だよ、山田さん。私は2025年生まれの、ごく普通の科学者だ」

彼は再び顕微鏡に向かった。その手はわずかに震えていた。それが年齢によるものか、それ以外の理由によるものか、誰にもわからなかった。

「さあ、環境修復バクテリアの解析に戻ろう。我々にできることを、今やるしかない」

山田も黙って作業に戻った。だがその心は、教授の言葉の余韻から離れられなかった。窓の外では、雨がようやく弱まり始め、遠くの空に薄日が差していた。

その瞬間、中村はそっとポケットから小さな金属製の装置を取り出した。磨耗した表面には、かすかに「2157年製」の刻印。

彼は一瞬それを見つめ、再びポケットにしまった。装置は最近、不調をきたし始めている。このタイムライン修正任務も、次が最後かもしれない。

あと少し。あと少しで、環境修復バクテリアの開発が完了する。

彼は山田に目をやった。この若者が、自分を未来で救い出す志願者になることは――まだ言えなかった。

雨上がりの空に、かすかな虹が架かっていた。

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