監査官の葛藤 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
光栄誠一は二十七年ぶりに「真生市場」に立っていた。空気中に身体認証システムから微かな電子音が鳴る。なぜだか、彼は昔から嫌いだった音だった。周囲の人々は彼の存在に気づいていない。当たり前か、この制服を着ていれば。
市場は……いや、匂いだけは変わっていた。合成肉の甘ったるさと培養魚の金属臭。それでも子供の頃と同じように、色とりどりの野菜や果物が並ぶ。ただ、どの商品にも鮮やかな「炭素点数」タグがついていて、目を引いた。3.7、5.2、12.8……数字がぐるぐると踊る。
「あら、お客さん」
振り返ると、かつて父が通っていた魚屋の娘の春子が立っていた。もう四十を過ぎているはずなのに、笑うと昔のままだった。
「どうして……私だとわかったの?」
「魚を見る目つきよ」春子はくすりと笑った。「あの頃と同じ。それに炭素税導入前夜、最後に買い物したのがあなたの家族だったの、覚えてないでしょ」
「そうだったっけ」
彼は首を傾げた。記憶が定かではない。ただ、父が気候危機対策に反対し続け、最後まで「昔ながらの暮らし」を手放さなかったことは覚えている。父の固執が会社の倒産を招き、家族を崩壊させたのだ。いつも怒鳴り声が響いていた。
「それで、何してるの?」と春子。
「炭素シンジケートの監査官」
彼女の目が見開く。「まさか……ここに?」
春子の声が震えていた。誠一は言いにくそうに続けた。
「この市場がカーボンニュートラル基準に違反してるって情報が入ってね」
「そんな……私たちは精一杯やってるのよ」春子の声にわずかな怒りが混じる。「メイン通りの店は基準以下に抑えて……それでも足りないの?」
「わかってる」彼は慣れない小声で言った。監査官として喋るときは普段もっと硬い声を出す。「あと12%足りない。このままじゃ閉鎖命令だ」
春子は肩を落とした。「何が足りないの?私たちはもう、地方から物を運ぶ時も電気自動車か水素車しか使ってない。店も全部太陽光と風力だよ」
「問題は生産工程だ」彼は規定通りの言葉を吐き出した。「養殖魚の点数が特に高い」
春子は困惑して天井を見上げた。どこにも答えはない。
「でも、これ以上どうやって……」
彼はふと、ポケットから小さな装置を取り出した。前任から受け継いだものだ。緑色のランプが不規則に点滅している。こんな日が来るとは思ってもみなかった。
「これが何か知ってる?」
春子は黙って首を振った。目が何かを悟ったように細くなる。
「カーボンオフセット・マニピュレーター。30分だけ、この市場全体の炭素排出量を40%減らして表示する」
「それって……」
「違法。もちろん」誠一は薄く笑った。父の顔が浮かぶ。「父さんなら喜ぶだろうな。嫌いだったんだ、急に生活を変える法律が出るの」
春子は黙っていた。寒空の下、風が市場の屋根を揺らす音だけが響いた。
「これを使えば今日の監査は通る。でも一時的だ。次回までに本当の数値を下げるか…」
誠一は装置のボタンに人差し指をかけ、ピタリと動きを止めた。手が勝手に躊躇っている。
「なぜ?」春子が囁いた。「リスク、大きいでしょ?」
「わからない」口から漏れた言葉は本当だった。「父は最後まで『美しいものには価値がある』って言ってた。いつもの意固地な父らしくなくて、その言葉だけ覚えてる」
装置のランプが不規則に点滅し続けていた。父の顔が頭から離れない。
「でも私は監査官だ。規則を守るのが仕事なんだよ」
それでも、彼の指はボタンの上で揺れたまま。
「父さん、結局間違ってたのかな」
ふいに背後から声がした。「そこで何やってんだ?」
同僚の水沢だった。彼は慌てて装置をポケットに押し込んだ。
「いや、子供の頃の思い出話を」
水沢は「はぁ?」という顔で首を傾げ、「東エリアはもう済んだ。一緒に西へ行くぞ」と言った。
春子と誠一は目を合わせた。春子の顔には、不安と期待が複雑に入り混じっていた。母に似ている、とふと思った。
「じゃ」と彼は言い、後ろ手でポケットの中の装置に触れた。水沢の後ろについて歩き始めながら、指先がボタンを押していた。音もなく。
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