見出し画像

彩りカレーの時代 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

2037年、東京・中野区。

「いらっしゃい!今日は何にする?」

佐々木誠は蒸し暑い六月の午後、「彩りカレー」の暖簾をくぐった。店主の岡田さんは、七十を過ぎた今も一人で厨房を切り盛りしている。米粒ほどの白い斑点が浮かぶ茶色のエプロンは、何十年も着古したものだと誠は知っていた。岡田さんが言うには「カレー作りの勲章」なのだそうだ。

「今日のスペシャルは?」誠は尋ねた。

週に一度のカレーの日。彼の人生における小さな贅沢だった。給料日前のこの水曜日、胃の中からじわじわと湧き上がる期待感を抑えられない。妻の美佐子には「タンパク質の摂取バランスがどうのこうの」と言われるが、この日だけは聞く耳を持たない。

「今日はね、久々に『伝統ビーフ』が入ったよ。モンゴル高原からの輸入特別枠だ。政府間協定で認められた炭素クレジット付きの希少肉さ」

岡田さんの声には、若々しい興奮が含まれていた。半分秘密を打ち明けるような、半分自慢するような表情で、彼は誠の反応を窺っている。

誠は驚いた。本物の牛肉カレーは、もはや高級レストランか特別なカレー専門店でしか食べられない。一般的なカレーショップのメニューから牛肉が消えたのは、炭素税の段階的引き上げが始まった2029年頃からだった。あの日、美佐子と並んで観た衝撃的なニュース映像を、誠は今でも覚えている。

「いくら?」と誠は聞いた。値段を聞かずに注文するほど、彼は裕福ではなかった。

「7,800円だ。高いだろ?でも今日は君のために取っておいたんだ」

岡田さんの言葉には嘘がない。彼は常連客をそれぞれ覚えていて、何が好きか、何に反応するかを知っている。誠が最後に牛肉カレーを注文したのは、去年の誕生日だった。美佐子からの仕送りで奮発したのだ。

誠は財布を確認した。確かに高い。普段なら躊躇するだろう。しかし、今日は学校の部活顧問を引き受けたことで、特別手当が出たばかりだった。小さな幸運の重なり。

「じゃあ、それをお願いします」

岡田さんはにこりと笑い、調理を始めた。小さなキッチンでは、様々なスパイスの香りが立ち込めている。店内には昼過ぎの日差しが斜めに差し込み、カウンターに座る誠の肩を暖かく照らした。

「実は先週、農水省が新しい規制を発表したんだ」岡田さんは話しながら手を動かす。その動きには無駄がなく、何千何万と同じ作業を繰り返してきた確かな技がある。「2040年までに、すべての外食産業は炭素排出量をさらに35%削減しないといけないらしい」

誠は新聞でその記事を読んでいた。彼が勤める中学校でも、給食のメニューから牛肉がほぼ完全に消えた。子どもたちは文句を言わない。彼らにとって、牛肉カレーは祖父母の時代の懐かしい料理にすぎないのだ。

「それで牛肉はさらに制限されるんですか?」

「ああ。でも面白いことに、培養肉に対する規制は緩和されるらしい。技術の進歩で、エネルギー効率がかなり上がったからね」

岡田さんの店は、伝統的なカレーと新世代のカレーの両方を提供する珍しい店だった。壁には古い時代のカレーのポスターが貼られている。ボンカレー、ハウス、グリコ…昭和、平成の時代の名品たち。誠の父親が大切にしていたカレー皿と瓜二つの食器が、ガラスケースに飾られている。

「今の子どもたちにとっては、食の概念が全然違うんだよ」と岡田さんは言った。「うちの孫なんか、『昔の人は毎日お肉を食べてたってホント?』って聞くんだぜ。まるで江戸時代の話を聞くような顔でね」

誠は微笑んだ。彼の担任するクラスの生徒たちも同じだ。「持続可能性」という言葉を、彼らは当たり前のように使う。

「ほら、できたよ」

岡田さんは大きな皿を誠の前に置いた。つやつやと輝く濃い茶色のカレールーの中に、柔らかそうな牛肉が見える。隣には鮮やかな色の福神漬けと、小さな皿に盛られた自家製チャツネ。米は北海道産の「ゆめぴりか」。この品種は気候変動の影響を比較的受けにくく、2030年代に入っても安定した生産を維持していた。

「いただきます」

誠は一口食べて目を閉じた。懐かしい。彼が子供の頃、母が特別な日に作ってくれた牛肉カレーの味がする。スパイシーで深い味わい、そして柔らかな牛肉の旨味。記憶は味覚と結びついている。母が亡くなって十年になるが、このカレーを食べると、彼女がまだ台所に立っているような錯覚を覚える。

「どうだ?」岡田さんが期待に満ちた顔で尋ねた。

「最高です。でも…」

「でも?」

「なんというか、たまに食べるから特別なんでしょうね」

岡田さんは頷いた。老人の目が遠くを見るような表情になる。「そうそう。昔はみんな当たり前のように食べてたんだよ。でも今思えば、あれは贅沢だったんだな」

彼の言葉には、誇りと諦念が混ざっていた。この店を始めてから四十年、カレーと共に生きてきた男の感慨だ。

「モンゴルの牛は違うな」と岡田さんは続けた。「彼らは広大な草原で放牧してる。土地の劣化も少ないし、飼料も使わない。今のグローバルな畜産基準では、ほとんど唯一の"持続可能"な牛肉生産地だ。それでも年間輸入枠は厳しく制限されてる。今回のは、モンゴル政府の111周年記念で特別に割り当てられた枠からの一部なんだ」

誠は食べながら店内を見回した。他の客たちは様々な種類のカレーを楽しんでいる。隣のテーブルでは若い女性が鮮やかな黄色いカレーを食べていた。サフランとマンゴーの香りがする。彼女の皿に添えられた小さなQRコードは、食材の由来を示すトレーサビリティ情報だろう。

「あれは?」誠が女性の皿を目で示すと、岡田さんが答えた。

「あれは『シーズナル・ベジ』だよ。今月は都内の垂直農場で採れた野菜がメインさ。二酸化炭素と水の使用量が表示されてる『トレーサブル』メニューだよ」

その若い女性は、スマホで何かをチェックしながら食べている。おそらく栄養価とカーボンフットプリントの計算だろう。美佐子も似たようなアプリを使っていた。

日本のカレー文化は、環境変化に適応しながら進化していた。もはやカレーといえばチキンだけではない。むしろ、無限の多様性が生まれていた。

垂直農場で育てられた野菜のカレー、培養肉を使った「ネオ・ビーフ」カレー、地域の伝統食材を活かした「ローカル・フュージョン」カレー。さらには、季節ごとに変わる「シーズナル」カレー。

「最近の若い子はね、カレーのスパイス構成とカーボンフットプリントの両方を気にするんだよ」岡田さんは言った。「便利なアプリで、自分の体調や環境への影響を計算して、その日に最適なカレーを選ぶんだ」

「時代は変わりましたね」誠は半分溜息交じりに言った。

「変わったけど、変わってないよ」岡田さんは笑った。その笑顔にはいくつものシワが刻まれているが、目はまだ若々しい光を放っている。「日本人がカレー好きなのは昔も今も同じさ。形が変わっただけだ」

そう言いながら、岡田さんは古いラジオのボリュームを上げた。流れてきたのは60年代の懐かしい歌謡曲。氷川きよしの若い頃の声が、店内に響き渡る。

誠は最後の一口を味わった。確かに特別な味だ。しかし、先週食べた岡田さんの「自家製キノコ・カレー」もまた格別だった。そして先月の「中央アジア・サステナブル・ラム」カレーも忘れられない。

思えば子どもの頃、誠にとってカレーといえば「肉」が主役だった。しかし今、彼の舌は様々な味を識別できるようになっている。世界が失ったものもあるが、得たものも少なくない。

レジで会計を済ませると、岡田さんは小さな紙袋を渡してきた。「これ、持って帰りな」

「何ですか?」

「今度、うちで試験的に出す予定の新メニューのレトルトだよ。『ブレンド・プロテイン』カレーっていうんだ。植物性と培養肉を特殊な比率で混ぜてる。どう思うか、感想を聞かせてくれ」

岡田さんの手には軽い震えがあったが、その目は好奇心に満ちていた。七十を過ぎても、まだ新しいことを試そうとする姿勢が、誠には眩しく見えた。

「ありがとうございます。絶対に食べます」

誠は紙袋を受け取りながら、ふと考えた。カレーは日本の食文化の中で、最も柔軟に進化してきた料理かもしれない。インドから伝わり、イギリス経由で日本化され、そして今、環境の時代に合わせて再び変容している。

「今度は何曜日に来る?」岡田さんが尋ねた。その質問には、年老いた店主の小さな期待が込められていた。

「水曜日です。楽しみにしてます」誠は答えた。彼にとって、この店は単なる食事処ではなかった。過去と未来の間に架かる橋のような場所だった。

店を出ると、初夏の夕暮れが街を包み始めていた。透明な大気汚染防止膜が張られた空は、昔より青く見える。とはいえ、それは錯覚かもしれないと誠は思った。

帰り道、彼は美佐子にメッセージを送った。「今日はモンゴル牛のカレーだったよ。たまには君も来ないか?」

美佐子の返事を待ちながら、誠は歩き続けた。来週は何のカレーを食べようか。選択肢は無限にある。そして、それぞれに物語がある。

カレーという名の多様性の時代は、まだ始まったばかりだった。

#創作大賞2025 #お仕事小説部門 #カーボンダイエット#ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

いいなと思ったら応援しよう!

國分裕之 あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。

この記事が参加している募集