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並盛りの記憶 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

2042年、東京。

木村拓也は「牛丼ミュージアム」の前に立っていた。かつて日本中に展開していた牛丼チェーン「松野家」。その最後の実店舗が、まさか博物館として保存されるとは、誰が予想しただろう。

「いらっしゃいませー!」

自動ドアが開くと、懐かしい声が館内から流れてきた。もちろん録音されたものだ。昔、店員が張りのある声で放っていたあの挨拶。音声技術で、かつての活気が再現されていた。

拓也は47歳。子どもの頃から牛丼が大好きだった。最後に松野家の牛丼を食べたのは5年前、閉店前夜のことだった。あの味を、もう一度味わえるとは思ってもみなかった。

館内は2020年代の牛丼店の内装が忠実に再現されていた。カウンター席、厨房、セルフオーダー端末…どれもリアルだ。だが一つだけ違うのは、もう本物の牛肉の牛丼は提供されていないということ。

「木村様ですね。ご予約のプレミアム体験へどうぞ」

受付のホログラム案内人に導かれ、彼は特別体験ルームへと足を進めた。展示エリアを抜けた先に、ぽつんと用意されたカウンター席が一つ。懐かしいメニューがタブレットに映し出されている。

「並盛り、お願いします」

懐かしさにかられて、思わず声に出して注文してしまった。もちろん、タブレットのタッチ操作で完結するシステムだが、それでも拓也は、あの頃のように声を発したくなった。

「かしこまりました。少々お待ちください」

AIの声が応える。どこか温かみがあって、人間の記憶の中の声に近い。

待つこと数分。厨房から一人のスタッフが現れた。白衣をまとった調理員の手には、湯気の立つ白い丼。

「お待たせしました。並盛りでございます」

拓也は目を見開いた。

「これ…本物の牛肉ですか?」

スタッフは微笑みながら頷いた。

「ええ。月に10食限定のプレミアム和牛を使用した特別メニューです。持続可能な方法で育てられた牛肉を使っています」

2035年頃、商業的な牛肉生産はほぼ終息した。気候変動への対応と、培養肉の台頭により、従来の畜産は劇的に姿を変えた。今や、本物の牛肉は高級レストランか、こうした展示施設でしか口にできない。

拓也は箸を取り、そっと一口、牛丼を口に運んだ。

「……うまい」

思わずこぼれたその言葉。口の中に広がる味と香りが、記憶の扉を次々と開いていく。学生時代、終電を逃した夜に食べた牛丼。初めての給料で味わった並盛り。子どもが生まれた日の帰り道に寄った店。牛丼は、拓也の人生に寄り添っていた。

「最近の若い方は、培養肉や植物肉の牛丼しか知りません。でも、私たちの世代にとっては、牛丼はただの食事じゃない。文化なんです」

スタッフがそっと言った。

拓也は頷きながら、黙々と箸を進めた。どこか懐かしい、でも何かが少し違う。肉質はかつてより上質に思えたし、タレの味も洗練されている気がする。

食べ終わると、スタッフに促され「一般展示」へと移動した。そこには、牛丼の歴史が丁寧に展示されていた。明治の牛鍋から始まり、昭和・平成のチェーン店の全盛期、そして令和の変革期。

最後のセクションは「現代の牛丼」。ガイドのAIが説明する。

「多くのお客様は、もはや本物の牛肉と代替肉の違いがわからないとおっしゃいます。現在の『新・牛丼』は、味覚、栄養価、環境負荷、倫理的側面のすべてで、過去の牛丼よりも優れていると評価されています」

展示には、現在主流の代替牛丼のメニューが並んでいた。「バイオ牛丼」「植物牛丼」「伝統牛丼(培養肉使用)」…新時代の“牛丼”は、選択肢に満ちていた。

そして最後のパネルに、こう記されていた。

『私たちは過去の味を懐かしむかもしれない。しかし、未来の味を創造しているのもまた、私たち自身である。』

ミュージアムを後にし、拓也はゆっくりと通りを歩いた。角を曲がった先に、見慣れたフォントの看板があった。

「新・松野家」

迷いながらも、拓也は店内へ入った。

「いらっしゃいませー!」

今度は、実際の人間の声だった。

カウンターに腰を下ろし、メニューを開く。

「植物ミンチ牛丼、並盛りをください」

数分後、丼が目の前に置かれた。見た目は、かつてとほとんど変わらない。香りも、あの頃を思い出させる。

一口。肉の食感は少し違う。けれど、味は驚くほど本物に近かった。

隣の席では、若いサラリーマンが満足そうに丼を空にしていた。彼にとっては、これが「普通の牛丼」なのだ。

時代は変わる。味も変わる。

だが、「手頃で、早くて、うまい」というどんぶり文化は、形を変えながらも確かに生き続けていた。

拓也は、ふと思った。

これまで、いったい何杯の牛丼を食べてきただろうか。そして、これから、あと何杯食べることになるのだろうか。

丼を手に取り、最後の一口を口に運ぶ。

「ごちそうさまでした」

#創作大賞2025 #お仕事小説部門 #カーボンダイエット#ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集

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